母は腎不全だった。当時の医療技術ではどうしようもなかった。初めて人口透析という技術が普及を始めていたが、まだ、自由診療でかなり高額な治療費がかかる。父の収入では負担しかねる状況だった。父は板挟みになり涙を泣いたそうだ。
それでも人口透析に取り組み始めた。本当に幸いなことに人口透析は保険適用の対象になった。
母から聞く人口透析の本当に厳しもので、まずは血管を引きずり出すシャント造設手術をする。そして、週3回病院に通い、動脈と静脈にそれぞれ畳針のような針を刺して、体の体内の血液を浄化する作業の繰り返し。
また、当時の技術としてはまだ十分に開発されていなかった。つまり、母の命はいつまで保つかは始めてみないとわからない状態からの見切り出発だった。
食事制限も厳しく、細心の注意が必要だった。特に塩分やカリウムの調整が難しかった。
就職した私が最初に買った車は雪道に強い車を購入した。万が一、雪で電車が止まっても車で病院まで送っていった。
母はとても忍耐強く治療に努めた。しかし、6時間もベットの上に固定されるつらさは本人しかわからないだろう。妹が母の強ばった体をマッサージを繰り返した。
そんな母に私は生きていくんだ。という気力を感じた。
しかし、母の前には乗り越えていかなければない事態が次々
襲うことになった。