過ぎたるもの 2

それは純子と由佳です。由佳とは真澄が卒業前に紹介してくれて、オープン戦にでねもらいました。たぶん何が何だかわからなかったと思います。

純子と加世子が私のクラスでクラス開きの学活で中学校生活についての注意事項はプリントにまとめて一通り説明した後は、ずーっと部活の話ばかり。クラスの生徒の多くはなんだこの先生はと思ってしまったと思います。

第一、普段はヨネックスで上から下まで固めていて、まるでヨネックスの、広告塔のような先生。

しかし、その時は好美たちの関東大会へのことですべてがいっぱいでした。そんな話に瞳を輝かせて聞いていてくれたのは純子と加世子です。

だから純子、加世子、由佳、由美が初めて練習に来てくれた時のうれしさは半端ではありませんでした。 

まずは純子の体格のバランスの良さを見ただけで、将来性を感じました。本当に欲しかった生徒が来てくれた。と喜んでいました。純子に簡単なフットワークを教えて、やってろ。と指示した時の床をしっかり踏み込んでフットワークをしてくれました。

そこでこの子只者でないと感じました。

後で聞くと小学校でさまざまなスポーツを経験してきた。ということで、身体の土台がずば抜けてました。

由佳は何にも染まらない状態で入部してくれました.今でも忘れません。初めて体育館で練習した日、好美たちに手を振りながらニコニコして、帰っていく姿。それを好美がにっこり笑って送り出している姿。そんな由佳が好美たちを連れて遠征に出ていて、野庭中の田中光顕先生に預かっていただきました。遠征から帰った翌日、由佳が嬉しそうに野庭中の2年生に勝った。報告に来た時の嬉しそうな顔。

私もその頃は関東大会を、何度もみに行って、神奈川の選手ではシングルスで勝つのは容易でないことは承知してました。そのくらい神奈川の中学校のシングルスのレベルは低かったです。善行の先生とも話していましたが、ダブルス勝負しかないだろう。と考えていました.ましてや、全国大会レベルのダブルスはもっと上になります。それを2年半でやり遂げるにはどうしたらいいか考えました。幸い目の前に好美と実紀のダブルスを、毎日見ていられるわけですから、こんなすごい環境はなかったと思います。

好美たちの修学旅行明けに、南が丘と、定期戦でした。なかなか、調子の上がらない好美たちを珍しく叱りつけて、代わりに純子と由佳のダブルスを初めて、使いました。勝つか、負けるか、ではありませんでした。そういう体験をさせる目的でした。

好美たちと決勝で当たることが予想される相手に試合をした経験がある。これはやりたくてもやれない貴重な経験だったはずです。

これに加世子と由美で勝負を付けるわけですが、純子と由佳が突破口を開かない限り、試合は始まらないのです。橋本になんとか繋いでもらって、加世子と由美で決める。

好美は大変に上手な子だし、実紀の打点は誰も真似できません。明子のスピードほ立田、真澄と繋がってきた浜中シングルスの流れです。急激に力をつけていた華代とグッサン。そんな姿を見ながら練習を続けていました。

一番最初にその存在に気がついたのは美しが丘中の林先生でした。県大会後すぐに大清水の辻野、大西と純子と由佳を呼びました。美しが丘中も次の何度の優勝を睨んでいました。流石によくみてました。

関東大会で明子が国府中の大橋に勝てなかった後、大橋は漏らした屈辱的な言葉。考えてみれば、1年生の大橋はなにげなく言ったのでしょう。

そこから足作りの毎日でした。その足音すざましさに舞台の幕の向こう側で練習していた演劇部がグラウンドな避難してしまいました。

技術は合宿てコートの担当先生が教えてくれる。

私は割り切りました。どれだけ根気よく足作りに打ち込めるか。

浜中の生徒は私から技術的なことはほとんど教わっていないと思います。それもコート内を動き続ける足作りです。

たぶん他の学校が見に来ても、いつまで同じことしてるのだろう。と思ったと思います。

素人監督ができることはこんなものです。

ただその土台の上で戦っていたのです。

それを続けてくれた二人だからこそ、将来性の高い二人が育ったのです。

だから、結果は問うことはしません。二人が最後まで目標にしたことは関東大会に出場して、さらに全国大会を目指すことでした。二人は途中のことをかんがえなかったと思います。

一つ顧問として心配だったのは、横浜市大会決勝での出足の悪さでした。

やはり大型プレーヤーの純子のエンジンのかかりは難しかったと思います。しかし、純子の、スマッシュがあってこそ由佳が活きるダブルスです。試合経過は本部に張り付いていなければいけない立場です。もっともっとそばにいて見てあげられればよかったと思います。本当に申し訳ないのは私です。

今でも精一杯たたかってくれたと私は思ってます。

由美の異変にも気が付かないで、大切な第二ダブルスを失い、個人戦で関東大会まで行くの団体戦で行くのとは訳がちがいます。その責任を負わせてしまった顧問が未熟だったと思います。