軽音

日大文理学部三島校舎の「軽音楽部」はサークルではありません。もちろんそういノリで入部してきても受け入れていますが、メインのグループは何度も何度も合宿があり、厳しく指導されました。

高校時代に仲の良かった友人は盛んにNSPのコピーをしたがった。私は赤い鳥のコピーバンドがつくりたかった。文化祭でチューリップの「心の旅」をうたつた。

 なぜ私が大学入試でそこを選んだかというと、ポピュラーコンテストの神奈川大会は渡辺真知子がいます。関内ホールで行われる神奈川大会での存在感は圧倒的でした。中野サンプラザ関東甲信越大会も強者揃いでした.そして.静岡県掛川市にあるつま恋の本選会場へ行って、中島みゆきにショックを受けました。そこで八神純子がプロ転向で、空白地帯になる東海地区大会出場へ向けて、軽音と日本史の勉強の両立を図れると思ってました。本音を言うと三島で下宿生活したかったのですが、父親が三島なら通える。と言われ、通いながら練習を、続けました。メインのグループはユーミンのコピーをしながら、オリジナル曲の作成をめざしていた。

また、もうひとつのグループから声をかけられていた。そのグループは吉田美奈子のコピーをしたいけれど、キーボードがいなかった。ボーカルとトランペットは実力があった。「ラストステップ」などを弾いた。

授業が終わって、体育館下の倉庫の中で練習が続きました。練習が終わって坂道を三島駅まで降りて帰りました.朝、反対側の歩道を登っていく、三島北高の生徒を横目に見ながら登った道を重いエレキピアノを持って帰りました。冬の夜の相模湾根府川の駅で時間調整の間、東海道線はドアをあけたまま止まってます。沖に漁り火をつけたイカ釣り船がポツンポツンと浮かんでいました。

浜中の時、夜、私が煮詰まってしまっていると高橋先生と光明先生がカラオケに誘い、自分たちは歌わず、私と英輝先生は歌いたいだけうたわせてもらっていました。

日吉台でひブラスバンドをバックに爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」を歌いました。まさに.私自身中学、高校とずっと長野県の女の子と文通していて、一度会ってみたいね、と話しながら、結局、実現しませんでした。そんな思い出を心に秘めて歌いました。

深夜、仕事中に保護者から電話がはいり、カラオケに誘われて、次から次へとリクエストされて、歌うこともありました.

南が丘では保健室の先生がベースとボーカル。教務主任がリードギター。生活指導部長が再度ギター生徒指導専任と美術科の先生がツインでドラムス。そして、音楽科の先生がサイドボーカルとシンセサイザー。私は坂本龍一のようなマルチのキーボード。

最初は大塚愛の「さくらんぼ」プリプリなら「ダイヤモンド」や「世界で一番熱い夏」など30分。文化祭の昼休みに演奏が続きました。昼休みに暴れで学級展示を、こわされないように、学校全体で体育館の中に入れてしまおう.と言う裏事情もありましたが、私自身が気分良かったです。

デイケアではリハビリの一環でもカラオケはよくやりました。歌いたい人がたくさんいるので、私が集約し、私も小林明子の「恋に落ちて」や「オリビアを聴きながら」「会いたい」を歌いました。

唱歌の時間にキーボードで伴奏したり、ハロウィンやクリスマス会で演奏したりしました。

しかし、小学生の時の大怪我の傷はそのままです。演奏家への道は諦めざるをえませんでした。