修学旅行への道

学年行事の担当になりました。3年計画をたてました。、1年生はまず地元横浜を知ることです。関内駅を起点に班別自主行動を行いました。一番の心配は私のクラスにいるてんかんの発作を起こしてしまう生徒でした。その際、冷静に私と信頼関係がある生徒は純子でした。特に純子には予備知識は与えませんでしたが、きっと冷静沈着に判断して、私の携帯へ連絡が取れると思いました。

横浜が語れないのに、他の地域に出かけることはできない。それも、自分の足で歩いて….。

コンビを組む英輝先生とのれんけいもうまくいきました。

英輝先生は生徒全体に話を行き渡らせる力がありました。陰で私が企画したものをわかりやすく生徒に伝えるのが上手で委員会指導や学年集会での話もよくまとまっていました。

2年生の蓼科高原での準備は1年生の文化祭の学級発表から始まってました。私の教科指導の上でも等高線はなかなか難しいことですが、実際に10センチ四方の厚紙を大量に用意して、等高線ごとに切り抜いて、その厚紙を重ねていきました。もちろん発達段階は考慮しました。そして、一つ一つ積み上がっていくと蓼科山の立体模型が出来上がりました。他のクラスの生徒も見てくれたと思います。

蓼科山の下見にはノブ先生と一緒に登りました。ノブ先生はもし、雨が降ってしまった場合はどうするか、など確認していただきました。

過去、自然教室で蓼科山へは登っていますが、自分が実施担当者として登山するとなると、森林限界を越えてがれ場になっていくと、一つ一つの石が気になりました。

2年生が始まりました。ほんとうに自分のクラスのキャンプファイヤーの出し物も気が回ってないほど緊張してました。ただそれまでネイチャーゲームの2泊3日、こどもの国での活動に参加して、自然教室に活かしたいと思っていました。コンビを組んだ大学生の女の子とはすぐ打ち解けて、自然の力は大きいな、と思いました。とても素敵な女の子でした。

本番の自然教室。初日はクラス別の散歩、座禅草を見たりした後、ネイチャーゲームですやってきた芝生の上に仰向けになって寝て、五感で自然を感じるをやりました。飯盒炊爨。石井先生にお任せしました。手際良く、料理もできて、問題は片付けです。学年職員総出で指導にあたりましました。やはり、経験豊富な光明先生やノブ先生は、伊藤先生は頼りになります。ただ生徒たちも翌日の蓼科山登山の緊張があったのか、あまりバタバタしてませんでした。私はもう気が気でなく、朝3時から山頂の方向を見てました。何度もテレビ、ラジオで天気予報を確認しても安心できないまま、夜明けが待ち遠しかったです。生徒たちが起きる前には実施判断が出来ていないと困ります。じっと山頂を眺め、実施しましょう。と高橋先生に伝えました。

そこからは英輝先生や石井先生が各部屋に連絡に回ってくれました。朝食をしっかりたべて、登山に備えました。

登山の陣容は最初はクラス別に出発しますが、それぞれ力の差が出てしまいます。前回は「敏雄さん、頑張って」などと女子たちに言われてましたが、今回はそうはいきません。先頭は体力のあるノブ先生。とにかく先生たちも全員登頂しますよ。といってあるので遅れそうな先生は先発してもらいました。私は全体を見るため、中盤。殿は光明先生と伊藤先生。生徒にとっては立体模型ではみたもののさすがに実物は違います。だんだんと厳しくなってきた生徒が出て来ました.体重100㌔の生徒、帰宅部なので、足腰が弱い。膝が限界になってきました。ここで伊藤先生が柔道で鍛えた身体がこの生徒を背中に背負って、登山をつづけました。私もすぐに下へ降りました.伊藤先生はこの生徒は登頂は難しい、馬の背まで上がり、そこで休憩してから下山させる。と話してもらって、私は再び先を急ぎました。森林限界を超えてがれ場がに差し掛かる頃、空は快晴でした。頂上まで到着すると、目の前に赤岳が見えます。絶景です。この眺め、当たり前ではないってさけびたかったです。しかし、私の頭の中は下山が難しい。決して全員下山ができるまでは終わりてわはありません。私はキャンプファイヤーの準備があるので先に下山しました。本当はずっとずっと赤岳を見たかった。全員が下山してくることを見届けました。全員が夕食と出ている間、着々とホテルの庭に井桁が組まれます。各クラスが出てくるのを待ちます。馬の背から戻った生徒も夕食は食べてキャンプファイヤーに参加するごとになりました。

今まではエールマスターは戸崎先生でした。戸崎先生の横浜市レクリェーション協会のキャンプファイヤーに参加したりしながら、自分はどうやろうか考えました.各クラスの出し物やゲームをしながら、進行しました。シメに

入ります。前の時は澤野先生が「悲しみは雪のように」を、熱唱しました。

私はそれには及ばないけど「見上げてごらん夜の星を」を歌いました。そして、あらかじめホテルと話しておいたキャンプファイヤー後のお風呂を発表した時が一番もりあがったかな。最終日に牧場体験を行いました。家族でも訪れて、まだ小さな娘が牛乳の入った大きな瓶を見よう見真似で上下に振っていた光景が、なぜか浮んでくる。

 

飛鳥 教科書での扱いは推古朝から大化の改新になります。最近、多くの発掘結果から新しい解釈が進んでいて、勉強をどんどんアップデートしなければいけませんね。本当にあの田んぼの中からまだまだ何が出てくるかは私もわかりません。あの田んぼの中を歩かさせる計画はあの学年がはじまる前に決めておりました.なぜ飛鳥なのか?実は例年、浜中も京都三条河原町のいろは旅館を定宿にして、京都の班別自主行動がご多分に漏れず、行われていました。一部の先生が京都駅で、解散してさよならは楽だよ。という声が聞こえていたし、JR東海の「そうだ京都に行こう」という、CMが流れていて、京都へはいつでも新幹線一本です。それはそれで一つ前の3年生で錦市場でおばんざいを楽しんだ班がありました。それはそれで価値があると思います。しかし、京都の事前勉強というと。平安京の碁盤の目の話で説明です。京都なの文化の奥深さはそれではとても理解できるのだろうか?申し訳ないけど、社会科担当の発想としては安易ではありませんか。せめて「京都嫌い」くらいは読んでから始めて下さい。前回の京都班別行動は戸崎先生、澤野先生の発想でまるで「京都オリエンテーリング」でした。私と英輝先生で行動表のチェックをしていたのですが、英輝先生が「どこでもドアがあるのかー!」と叫んでいるので見てみたら、A地点からB地点への移動手段がまったく考えらていないものもありました。何度かチェックのし直しをされた班もありました。基本的に京都の何を見せたいのか、という担当者側の意図が伝わってこないなです。また、日吉台も私が転勤した際にはすでに京都班別行動に決まっていて、それを決めた方が教務主任となって他の学年に移られてしまって、方針が伝わらないまま、私が学年主任となってしまう。そして、たまたま、駅の防犯カメラに日吉台の生徒が一人の生徒に暴力を振るっているのが伝わり、校長から「危険な生徒たち」20名を私に預けて、一般生徒と離して、私が引率して、一日京都を案内するようにいわれたのですが、急いでルートを考えて、将来、また京都へ行きたくなったら、訪れる基本的な地点を案内しましたが、素直についてくるような生徒ではありませんでした。金閣寺ではなくわざと順路を逆走したり、数え上げられないはど勝手な行動はしてました。また、宿舎選びも十分な検討がさせていなくて、修学旅行生を受け入れが始めてのホテルでホテル側の担当者はお皿はどうの、とかそういう心配が先に立っていて実際に彼らが宿泊してどういう行動するかまったく頭になかったようです。そこには修学旅行担当の姿も生活指導担当の姿も見えませんでした。

日吉台の中で2年生で学年の生徒全員がおばんざい作りを体験して、修学旅行に臨んだ学年もありました。そういう、発想は面白いと思いますが、担当者のそこまでの準備は大変だったと思います。

飛鳥修学旅行はまず宿舎選びから始まりました。業者との打ち合わせで、奈良県で団体の受け入れをしている宿舎で食事が美味しい宿舎は2件しかありません。談山神社ホテルと信貴山ホテルです。大化の改新との絡みで行くと、談山神社中大兄皇子中臣鎌足が談合した伝承の場所です。昼食場所は飛鳥資料館しか、団体の規模から受け入れ可能な施設はありません。先方との打診が始まります。新幹線の日程の割り当てが決まり、近鉄や飛鳥を走り回っていただくバスの準備。私は飛鳥チャリンコツアーのアイデアを出したら、業者から、先生!飛鳥の路地は自動車がビュンビュン走り回っていますよ、と一蹴されました。高橋先生には甘樫丘から全体を眺めてもらって、高松塚古墳石舞台古墳、亀石、酒船石など謎の部分がたくさんあります。クラスは解散して自分たちの出発地点までバスでむかって、そこから田んぼの中をあるきまふ。前の日に薬師寺法隆寺のけんがくをした、そういう寺院がこの田んぼの中にはうまっているんだか。という想像力をはっきしてもらいたいとかおもいました。そして、それぞれの集合地点からバスに乗り込みます。私は業者の車で巡回しながら、飛鳥資料館の方で全員がか 回収できたか確認の、連絡を待っていた。昼食後、東大寺へ移動。奈良に来たからには抑えておきたい。見学後、京都へ、移動.ここで私には迷いが一つあつた。近鉄から見える平城京大極殿の復元を見せるかどうか。しかし、生徒の疲れを考えてカットした。最終日の朝、私はビデオカメラを持って男子部屋を襲撃した。せめてものふれあいだった。

朝食後、後嵯峨野へ移動した。自由に散策しながら買い物のできるのはここだけだった。私は昼食会場との打ち合わせで、生徒たちが満足して、修学旅行を終えることができたのか確認できなかった。やっと渡月橋をバックに「金剛地六訓」と書かれた学級旗を前にクラス写真を撮った。

帰りの新幹線、眠った。