全国大会へ

ほんの身近なところにその学校はありました。全国区で戦っている学校。金沢中。全国大会準優勝校。顧問の後藤先生にこんな初歩的なことを聞いていいかな、と思いつつ、どんどん質問しました。

金沢中の練習の秘密は休日は外に出る代わりに平日の体育館は毎日使えるそうでした。そこで、私は休日の体育館利用で月一回は全面確保するようにしました。そして、翌月の体育館利用が決まり次第、金沢中へ連絡をいれました。そこで都合をつけていただくと、金沢中に見合う実力校と連絡をとり、練習試合を組みました。最初はレベルの違いに埋もれていましたが、少しずつ力をつけて行きました。さらに後藤先生からいくつかのオープン戦を 紹介していただいて、目標が次第に高く掲げることになっていきました。自分で全国大会へ足を運び、本気の試合を見てきました。また、矢向中もバドミントンに紹介されました。顧問の金井先生に浜中の体育館が空いてますから来ていただけますか。と電話すると、丁度都合が良く来てくれることになりました。ところが、その日浜中体育館のトイレがこわれていて、プールのトイレを掃除して、使うことにしました。丁度、桜のトンネルを矢向中がのぼってきました。一生懸命トイレ掃除していて、浜中は矢向中を迎えて、練習試合をさせていただきました。

帰り際、「きっとあなたのチームは強くなる」と言い残して、いきました。野庭中に田中光顕先生が転勤してきて、練習試合に誘われました。その後、長年にわたって練習をお願いしました。田中先生も青葉台中当時は全国区のチームを率いてました。田中光顕先生の練習量は半端ではなく、浜中バドミントン部も一生懸命に食らいついて行きました。最初のうちは夏の終わりの相模原オープンに行って、体育館の大きさにすでに圧倒されていました。しかし、東京のチームと試合ができる貴重な大会なのでできる限り参加していました。横浜市の中学校は市の強化練習会の勝った負けたで、一喜一憂しています。そういう意味で小粒になってしまったと思います。確かにシード決めにあたって客観的な尺度は大切かもしれませんが、もっともっとはばたくためには、横浜市内だけみていたら、県大会でも勝てません。

純子たちの代に中川西中に金子という長身のシングルスがいました。顧問の小田先生は最初の団体のトーナメントでいつもオーダーを入れ替えて、勝ちを、ひろってましたが、そのうちに勝てなくなりました。長い戦いへの視野がなくなっていないでしようか。松本中、東鴨居中で本橋先生も東鴨居中に、移ると完全にジュニア選手頼りの戦いぶりでした。川崎も柿生中などは全くのジュニア頼りでした。ジュニアの世界には上には上がいます。

幸い?中体連役員として関東大会、全国大会の運営には嫌でも関わる.南が丘の時は柿生中、大庭中など県外経験が浅い顧問たちだったので、いつの間にか神奈川代表監督として、春の全国選抜大会に参加したりしました。国府中や邑楽中、埼玉栄中などの全国クラスの顧問とは面識がありましたし、山梨県が神奈川が着くとすぐに練習試合しましょう。という感じでした.大会前日の夜イメトレでオグシオデンマークオープン決勝をみていたら、大庭のシングルスの井上がもおもんう眠たくなってしまって…

。神奈川は1次リーグで惜敗.所属チームに戻ってどそれぞれが所属チームでその経験をどう活かすかでした。私にもなかなかない経験ができました。役員だから仕方ない部分もありましたが、一応「

全国監督」の経験ができました。