寺尾中の思い出1

1982年3月31日、キャンディーズのお別れコンサートの中継を見ている最中、電話がかかりました。それは鶴見区の寺尾中からの採用面接の連絡でした。

当時、私は叔父の会社の立ち上げで就業規則を作ったり、給与規則を作ったり、損害保険代理店業務の立ち上げをしていました。叔父は快く送り出してくれることになり、お土産にゴルフ手帳を渡されました。

寺尾中は改装したばかりで、とても綺麗な学校でしかんげいかい歓迎会でした。た。うらへまわると、直接、三ツ池公園へ入れました。最初は三ツ池公園でのでした。

私は2年生の所属で保ちゃんと坪ちゃんの副担任でした。二人とも生徒たちからとても信頼されている先生でした。保ちゃんは週末は湘南の海でウィンドサーフィンを楽しんでいました。時折り学生時代の学生運動の話をしてくれました.夏休みは若手の職員で奈良へ車ででかけました。一泊目は室生寺の門前の橋本屋旅館。とにかく、食事の量が半端でなかったです。翌朝、体育科の二人のせんせいが片足ケンケンでどちらが先に五重塔へ辿り着くか競走してました。そして、室生寺から高野山へむかいました。ものすごいカープの連続でしたが車内では枝雀の落語がながれていて、爆笑していました。二上山などをまわって、帰りの名阪で1台真ん中で先頭を走っていると、両側から一気に抜いていくなど若者の遊びの世界にとびこみました。

冬休みは終業式が終わった途端、車6台で長野県の白馬村へむかいました。翌朝、すぐに、リフトでどんどん上がって行きます。私は真っ白な雪山に感動してました。その後、悪夢が待っているとは…。

初心者の二人を残して、みんな滑り降りて行きました。もう一人の初心者は意を決して、直滑降で、おりていきました。私はボーゲンでソロソロ降りていくのですが、曲がり方を知りません。結局、コースの左右のネットに突っ込んでは方向転換して、おりていきました。半分涙目でした。

この山は八方尾根といって滑降の公式コースだったのです。いきなりな洗礼はきつかったねす。あのコブコブをきれいに降りていく隣で、雪だらけになりながら、おりていきました。天候が少し悪くなると、白馬村の双体道祖神を訪ねて歩きました。

朝食は納豆とたっぷりの野沢菜です。

帰りに寄った穂高駅前の蕎麦屋さんものすごく美味しいのですが、大切な約束がありました。「お残しはいけません。」という大将の方針で自分に合った分量をたのまないといけませんでした。

次の年からは夏休みに若手の職員によるりょこうの企画運営を任されました。出雲大社から島根半島を一周するコースでは「密航者に注意」という大きな看板があり、記念写真を撮りました.また、中海と宍道湖の間の水門があって見にいくと、警察官に質問されました。

私がバドミントンで忙しくなると「集合、坂本龍馬銅像」として.私は飛行機で高知に飛びました.

まもなく、淡路島を越えて、車が集合しました。夜は土佐の皿鉢料理です。翌日は自由民権資料館を見た後、四万十川をどんどん上流まで行きました。少し休憩して、河原に降りて打製石器を、作ったり。石投げをしました.さらに登って四国カルストを降りると、後は、松山まで一歩道。道後温泉で疲れを癒しました。

当時私がアマチュア無線の資格を持っていて、いくつか無線機を用意して、連絡し合いながら運転しました。