小説を書きませんか?

私が田奈注意の時に行った心理テストはいかにも私の心の混乱ぶり。そのものだった、誰の目から見てもわかるものだったと思う。管理職はすぐにカウンセラーを派遣して来た。しかし、カウンセラーは私から一応話を聞くと「小説を書きませんか?」と勧めてきた。それは私にとって正解ではなかった。

副校長とさ3校目のお付き合いだった。最初は休職して休みを取れば、といわれたが、私は頭を縦に振らずに退職させて下さいとお願いした。金剛地さんは一度決めたらそういう人だもんね。と了承していただいた。

カウンセラーさんの提案された「小説」というものが、自分には書けない。と思っていた。古典を読む時、「源氏物語」より「枕草子」であるし、鎌倉時代となれば「方丈記」「徒然草」なのである。

私が浜中を去るときに私のパソコンやフロッピーに入ったデータをMOにすべて入れて去った後、英輝先生が実際に使おうと思ったときに、大変なことになっていた。私のデータは上書きの連続でどういう経過でこういうものができたかがわからなくなってしまった、英輝先生は仕方なくMOのデータをすべて打ち出す結果になってしまった。後日、会ったときに、笑いながら「せめて、日付くらい入れておいて下さい」と言われた。そういう意味で私の頭の中は全体構造がこうで、そこからこういう系統になっていて、最終形態までこのようになっていく。という構想図が描いていないまま突っ走ってしまう。

機を見るのに敏であっても、そこから先はフォローの必要な人間であることがわかる。別にこれは悪い資質ですあるとは思っていない。例えば、歴史上に名前を残す人にはこの資質が欠かせない。典型的なのは織田信長がある。桶狭間の戦い。ここという機を見るや供回りだけで

城を飛び出す。しかし、危ないとなれば、部下たちを全部置いたままでも逃げてしまう。明智光秀は本能寺で寝所と馬小屋をまず分断している。いわゆる「是非西山及わず」である。さすが明智光秀は急所をついていたのである。鎌倉時代承久の乱も北条康隆が鎌倉を17騎で飛び出すことで遅れまいと鎌倉武士たちが続いていく。そうでなければ、いくら北条政子の演説があっても鎌倉武士たちはまだ逡巡していた。朝廷に弓をいる覚悟は待てば待つだけ小さくなってしまう。そのへ大江広元らの京都から来た文官がむしろ尻を叩く形で飛び出させている。だから瀬田川にかかるところてところで幕府軍は17万に膨れ上がっている。

人間にはきちんと物事を整理して進めていく人間と、機を見て飛び出す人間がいる。

そういうことから言えば私には「小説れは無理である。

このblogも忘れないうちに、忘れないうちに。あたまの回転するままに書いているので、どこにも統一性はない。娘が「大丈夫、お父さんが死んだら、まとめてあげる」といっている。だからそれまでは思いのままに書いていくと思う。