ゆずりあいシート

8月28日から11月20日津久井浜までの往復は片道だけでも2時間以上。そして、教科代表から何度もチクチクと責められる。確かに事務処理のミスや漏れはたっただろう。しかし、授業の中身については一切触れられなかった。提出物の点検に1時間使ったことに「本末転倒」とまで言われた。私はこの時間を通して一人一人にアドバイスをすることで人間関係の構築の時間だった。そういうことを理解しようとしない。形だけでしか授業を見ている教師とは何だ。わずかな期間の中で人間関係の構築は私にとってはどうしても必要な時間だった.確かに私の授業への反発から離れられない生徒もいた。それもまたいいと思う。むしろ反発があればそこで指導が始まる。

しかし、帰りの電車はほとんど「死んでいた」。

その中で横浜市営地下鉄ゆずりあいシートの異常さ。シートの両側をスマホに目を落としたまま体の不自由な人、妊婦、ヘルプマークをつけた人を気が付かないふりをし続ける。こんな異常なことがあっていいものだろうか。私のフラストレーションは溜まりにたまった。関係部署へ連絡を取ってと「参考にします」という返答ばかり、何もかわらない。

だから爆発した.まずは元気そうな大人にカバンをぶつけて「お前はこれが見えないのか!と言ってヘルプマークマークを見せると席を譲った。しかし、もう一度、学生がゆずりあいシートにスマホのゲームをしながら目の前のお年寄りに席をゆずろうとしない!私はキレた。「てめえらふざけるんじゃない!ここはゆずりあいシートだとわかってるだろう、なぜ席を譲らないんだ!」それでも彼らは席を譲ろうとせず、スマホに目を落としたままだった。私は「この糞ガキ」と憤った。しかし、許せないのは一緒にゆずりあいシートに、座っている大人たちがこれまたスマホに目を落としたまま、面倒から巻き込まれまいとしていること。一言、「だとあなたたち、席を譲りなさいよ」とフォローする大人が一人もいない。実際、彼ら自身もスマホに目を落としたまま弱者を無視する。本当にこういう世の中に誰がしたんだ。教育の成果なのか?

私は高等学校の非常勤講師をしながら管理職から口を開けば「評価」「評価」。「評価」をすることだけが学校の仕事なのか?学校教育は違うだろう。私の授業が浸透していくのに手間はかかった。それでも次第に理解する生徒がおおくなつた。しかし、最後まで私の授業に反発し、「辞職しろ」とまで言ってくる生徒がいる始末だった.しかし、考えてみれば小中とこうした「こころの教育」を受けた経験の生徒ばかりを変えるにはじかんがたりなかった。

それよりも職員の感覚がもう「評価」する「マシーン」化していた。まさに従順に骨抜きにされていた。この職員たちが生徒指導困難校で彼らは同じようにできるのだろうか。「無用に楽しそうな笑い声」が響く職員室に私はずーっとそういうストレスを抱えて毎日を過ごした。授業だけが救いだった。

帰ると精神を病んでいる妻がまとわりつく。私は家でもストレスにさらされながら毎日を過ごし続けた。身体は悲鳴をあげてる訪問マッサージ、鍼灸。必死に体のメインテナンスを続けた。

こういう状況をわかってもらえないことに私は絶望している。カウンセラーは逃げてしまう。生活支援センターも私の心を理解しようとしない。私の精神はどんどん荒廃した。確かに私は教育者なのだろう。だけどその前に心を病む人間だ。これだけの状況を理解してもらえない!わずか1時間の睡眠で心は休まるか!なぜわからない!なぜ表面的な言葉にこだわる!私の心の闇に思い馳せることができない。

どれだけのストレスを抱えた毎日に思いを馳せないのか!混乱して、混乱してどうしようもない!

だから学生にぶつかった。しかし、本当に本当に悪いのおとなたちぁ。なぜおかしなことをおかしいと言えない。それどころかずっとスマホを見てるのだ。自分には関係ないという態度を取るのだ。

教育がおかしい!成績さえ取れればいい教育が蔓延ってしまった。すごい危機。本当に「評価」が教育をねじ曲げている!

なぜ、私の心の闇に思いを馳せないで一般論で話そうとする。私が今、どれだけ辛い中で必死に振り絞った行為を表面的な言葉だけで否定する。そんな生徒を教えてきた覚えはない!確かに今の私はおかしい!ではなぜ理解しようとしない。絶望した。何度もいう一般論で話せる状態ではないんだ。