歌いたい欲に 勝てなかった

朝日新聞に歌手のJUJUさんの話が載っていました。幼稚園の頃に初めて買ってもらったレコードは大橋純子さんの「シルエット・.ロマンス」だった。好きなドラマは「金曜日の妻たちへ」や「火曜サスペンス劇場」。大人たちの世界は魅惑的だった。

「ちょうちょ」とか「チューリップ」よりも「シルエット・ロマンス」をみんなで歌いたかった。あのメロディーラインって。ただ明るいものよりも

マイナー心がザラっとするものが好きでした。子どもの頃、周りの大人たちに「子ども用」という概念がありませんでした。普通だったら「子どもの前でやめなさい!」という大人たちでした。…大人の日常を観察するのに最適な場所がスナックだった。

親戚が集まってカラオケ大会の時、姉がそつなく歌った、その後、JUJUさんは「北酒場」を歌ったとたん、大人たちがキラキラとした目で見たことが歌手になるきっかけになったそうです。

私はこの話にシンパシーを感じました。確かに「

子ども用」「大人用」順々に成長する子どももいます。しかし。ピンとくるものがあれば、そこから一点突破していく子どももいます。成長のあり方は人それぞれであり、同じ尺度で測ってしまうような教育でいいのだろうか?と思います。「評価」問題と、繋がっていると思います。いわゆるいい子を作り出していないだろうか。そのまま大人になり、さらに定年過ぎまで生きていく人もあるんだな、と思います。その点、私はそれが我慢できない人間です。欲が深いというというか、好奇心の塊みたいなところがあります。そういう意味で高校の時間割に芸術的な科目が見られなかったことに驚きました。歴史の授業でも文化史は扱わない。欧米のビジネスマンは週に一回は美術館へ足を運ぶものだ、と話してもピンとこないようでした。天竜川とヤマハのピアノの関係の話をして目を輝かしたのはピアノを習っている生徒だけでした。とても寂しい授業になりました。基本は教師がそういう素養に欠けていることではないでしょうか?勉強に終始して周りの見えない子どもを育ててないだろうか?そんな思いを残してしまいました。例えば日本史の授業であってももっと他の教科にも目を広げる、実際に「プレートテクトニクス」は他教科のことと目もくれない。中学校社会科の最初に学習する地図記号は忘れている?やったことない?とてもバランスが悪いのです。そのくせ英語の授業はたくさんありました。

私はあえて言いました。英語がどんなにできてもバックボーンになる専門知識がなければ理解できない。と言いました.例えば翻訳者の方が一つの本を翻訳するのにどれだけ専門知識を準備しなければいけないこと。そういう意味で、文法や発音に偏った授業編成していて、果たしてこの生徒たちの情操教育はどうなってしまうのだろうか?すると、音楽や美術の授業は中学校で終わりなのか?そうなるともっと小学校から高校へ至る教育課程を縦断的に考えなければいけなかったと思います。悪い言い方をすれば「即物的」な授業編成を感じました。子どもたちにこれは「子ども用」「大人用」と分けるのではなく、最初からいろいろ見せて子どもに選択させるさせる方がいいのだろうか?考えさせられることが多かったです。