「評価」「評価」「評価」

この言葉が校長面接の際、何度出てきたでしょうか。「評価」という尺度で生徒たちを測っていく学校の姿勢そのものでした。当然、教職員も右へ倣えでした。そういう教師から教育を何年も受けてきた高校生はどのように育つのか、ぜひ見てほしいです。生徒は穴埋めプリントを静かに黙々と回答していき、教師はそれを解説するのが授業だと思っている。私は自分の授業プリントを作りました。生徒に「なぜ」を投げかけるプリントです。大多数の生徒は自分の考えを書き込む、という発想そのものがありませんでした。板書されたことを素直に写していく。それが勉強だと訓練されてしまっていました。カオスの状況がわからないのです。私は歴史の担当です。正解はありますか?一つ発見があればいくらでも崩れるものです。「選択肢」という考えがない。

これは大変に危険な状態です。マークシート式の試験で教員の手間は省けました。しかし、余白の部分がなくなってしまうのです。日本史の教科書といえばY社を採用する学校が大多数です。それは出題がその教科書からされることが多い。また、その教科書で自分が学んできた、という経験に基づいています。あえて他の教科書会社のものと比べると、大変に使いづらい。しかも、執筆陣には御歴々の名前が…

教科書の中身がすでに時代遅れになっていても変わらないのです。教科書を採択する側はそこら辺が見えてますでしょうか。大学入試問題の作成者たちも安易に流れてませんか?

評価することで生徒たちを落ちこぼしていませんか?相対評価の時代と変わらないではないのですか。私たち教師はどうして相対評価から到達度評価に変えていったか、知らない世代が教師をやっていて、我々の歩んだ道が受け継がれていないことを感じました。我々は学期末、「差別選抜作業」を余儀なくさせられていました。その矛盾をなぜまた蒸し返すのですか?教育はそんなものではありません。自らの考えで判断し、行動するものです。

私は不思議な風景に出会いました。プロジェクターでスライドを投影しながら授業を進めていきました。ほとんどの生徒はプリントに何も書いていませんでした。中には私の板書や話について書いている生徒もいましたが、それは最初はほんの一握りでした。私が机間巡視をしながら「こうして書き込みができるといいね」と話すと次第に書き込みのできる生徒が出てきました。たぶん、それは「評価」に関わると判断してのことであり、本当にわかって書いてるのかは、また、違うものでした。

そのうちプリントの「答え」を書いてほしいという要望が多く出されました。彼らの欲しかったものは「答え」でした。そこで次に「なぜ」に対する教科書の「見解」を書いてプロジェクターで投影しました。すると彼らの中で何人かがスマホで投影されたスライドを撮影はじめました。とても便利な時代になったものだと感心しました。教室の後ろで様子を見ていた支援員の方がスマホの使用についてやめさせた方がいいのでは、と言ってくださいましたが、私も授業で投影したスライドをGoogleclassroomに掲載をはじめて、話に集中するようにしました。そして、ここに書かれているのは教科書の見解であり、別にこういう考え方もあることを付け加えました。そこで混乱をする生徒が現れました。ては「答え」は何ですか?というふうに混乱してます。彼らの発想の中には答えが一つしかないのです。そういう教育を受けてきた結果でしょう。それは教師側の力量の問題だと私には見えました。私の机の上には図書館で借りた本が積まれていましたが、同じような先生の机は見当たりませんでした。委員会から発行されたような資料が並んでいました。

例えば中間テストで一部分が記述式(重要語語句や人名を問うものばかりでした)についても「漢字指定」となるとそこで止まってしまう。私はなぜそこでひらがなでもいいから書いておいてみる。もんだいを解いていく中でもしかすると、漢字が浮かんでくることもあるかもしれないと話しました。「粘りなさい」を繰り返しなさい。答えに近づいているものがあれば、そこを指摘する。どうすればさらに答えに近づけるか、方法を明示してみる。はっきり言って面倒くさい作業をしました。

生徒には「私は2時間以上かけて❌をつけに来ているのか」と繰り返しました。教育は手間がかかるものです。そのかける方向が今は違っているように見えます。「管理」することに重心が行っているように感じました。

今日、有隣堂で「自分の頭で考え判断する力 クリティカル・シンキングができる子に育つ3つの視点と13のレッスン」という本です。表紙を見て、ビンときたのですぐ買い求めてしまいました。