テメェだけいい思いしてるのは誰だ

私は20年、大会本部席から離れられなかった、自分のチームが決勝まだ行っても、コートサイドに行けるのは最後の場面。これだけ専門部に尽くしてきた人間が役員名簿から名前が消えた。ちゃんと声一つかかった覚えはない。確かに身体も心も精一杯だったのはみるからに明らかだった。でも20年間本部席を固めていたのは誰なんだよ。それがあったから試合進行もできた。忘れもしない寒川体育館。大会運営システムが試合中にシステムエラーでデータが飛んでしまった。たまたまバックアップデータがUSBに入れてあった、すぐに差し替えして次々とトーナメントのやり直しから始まって、試合結果の入れ直し、使わない審判用紙。次第に試合進行に追いついていく。決勝が終わった時には辻褄が合った。どれだけ冷や汗ものだった。しかし、だけどその舞台裏を知る役員はいない。そういう仕事たった。無論、そんなエピソードは山ほど乗り越えた20年だった。

合宿の朝練習のコースを考えるのに一緒に走った。朝食だって生徒に勝手にしていろというわけにはいかない。9時に体育館が開けば本部設置。昼食の弁当配り、そして、ゴミ回収、練習が終われば本部撤収、夕食指導、入浴指導、就寝指導…。それなのに先生方のランキング表を作って1番下にわたしの名前をわざわざ書いた。バドミントンができることがすべてなのか?こういう下積みをする人間の評価はどこにいっているのだ。そういうことを含めて、何故何ごともなく名前を消したのだ。うるさいからか?できなくなっているのは自分でも自覚している。でも然るべき態度がなかっのか?

中体連役員にも関わらず大会中に自分のチームのことしか考えてない役員を怒鳴りつけたこともあった。本当に嫌われ役だった。

晩年「金剛地先生は存在感があるから…」と繰り返し言われた。つまり「うるさい」ということだろう。

役員さえもやらず、自分のチームに専念している顧問にいたってはいうまでもない。

そして、家庭事情で再就職しなければいけない。なのに臨時任用も非常勤も声がかからない、部活動指導員の話も流れた。家の収入源がない。

それでも横浜市の教員としてお世話になった分、何かの形で返すプロジェクトを始めた。

本音を言えばやはりどこかで雇っていただいて収入を得たい。委員会に電話した時、電話口で「順番待ちですから」と言われた。誰が私のことをきちんとみていたのだろう。