ジュニア選手の扱い

あざみ野当時。試合会場に来ていた母親の一人が私に「うちの子供を預かっていたなだけますか」と言ってきた、3年に姉がいました。あざみ野の当時のメインの顧問はバドミントン経験者ですが、私へのリスペクトがありました。私は廊下でコツコツとラダー練習を続けていました。試合になればかきゅうせいたちを引率して上級生の試合を見せていました。そんなとき、簡単なアドバイスはだしてました。オープン戦があれば腕試しをさせていました。そして、夏の大会で3年生の試合が終わり、2年生ちゅうしんのチームになり、顧問が交代することになりました。私の練習は基礎練習が延々と続きます。2年生たちは素直に従って練習し、ジュニア選手選手で固めたあおばくないのチームを破り、優勝しました。そんな時に声をかけられました。

新入生が入ってきました。一人のジュニア選手以外はすべてはじめてラケットを他にする生徒たちです。たまたまその時の2年生に底意地の悪い生徒たちがいました。バドミントンの力量はともかく練習にしっかり取り組まず、気がつくと次々と影のルールを増やしていきました。前任の顧問もよく頑張って指導はしていたと思いますが、それがあからさまになる形になりました。さまざまな形で一年生を縛りつけました.一方でバドミントンそのものは一向に上達しない。どちらが先なのかはわかりませんでしたが、集中力がなく、2年の終わりに2年生とその保護者を集めて状況を話した上で指導を進めていたところ、すでに受験を終えた3年生たちが指導している部屋に乗り込み、それが今までの流れだから変えられない。と開き直りました。それでも練習内容は変えず、夏をむかえ、区大会で終わりました。そして新チームになりましたが、全員が150センチに満たないチーム。ジュニア出身の生徒は私の練習に飽きてきて、次第に反抗的な態度になってきました。ただほかのメンバーが着実に力をつけていました。夏の大会の後、新人の試合で全員が遜色ない戦いぶりができるようになっていました。ジュニア出身の生徒はジュニア選手が集まっている柿生中へ転校してしまいました。その時にたまたま新しく専門部長になった畔上先生から見てもらえませんか?と呼ばれて行った時にちょうど浜中に横浜市大会の優勝を取り返してくれた顧問もいました。雑談の中であざみ野から転校することになった生徒が入ると柿生はこんなオーダーで来るかな、と皮算用をしているのを見て、今後あまり期待できないな、と思ってみてました。

ただ私の身体の不調が大きくなり、冬、トイレで倒れ、救急車で運ばれ集中治療室に入りました。

ちょうど副校長先生が元バドミントン部顧問で関東大会も経験していて、私のこともよく知ってた方なので、なんとか県大会までは届きました。その時の生徒たちは一つのラリーごとにフラッシュトークをかわしてました。彼女たちは日々の練習で自分たちのぷれーを自分たちで考えることを要求していました。

集中治療室から帰ってきても体育館へ行ける体力はなく私はインシュリンを打ち続けるようになり、田奈へ転勤しました。

あざみ野は新しくバドミントン経験者の顧問を迎え、それまでの私のやってきた練習から一気に変わりました。

夏の市大会でベスト8に入り県大会へ進出できました。私も応援に行くと部員全員で挨拶に来ました。

 

ジュニア選手を育成するのは難しいと思います。中学校から始めた生徒に優越意識があります。しかし、ちゃんと見れば身体の軸のズレとかできてない部分があり基本練習をしっかりしていればもっと伸びる余地がありました。しかし、飽きて仕舞えばそこまでです。それ以上遺留する必要はありませんでした。指導者が目先の皮算用をしてオーダー勝負に走って横浜市大会で優勝しました。、と報告してくれた後輩がいました。相手を見て、いろいろとオーダーを、操作したそうです.県大会での報告はありませんでした。

そういう話を聞くと選手を育てる気持ちはどこにいったのか、私は考えてしまいます。谷川たちを中心としたチームで神奈川県大会団体優勝した。中川中の小林先生は今、アメリカにいます。「金剛地先生みたいな顧問はいなくなってしまいました」と、出発前に連絡してきました。