「楽しさ」原点

今朝の新聞にバドミントンの日本代表の山口茜選手のパリ五輪への記事が載っていた。

世界選手権2連覇、現在も世界ランキング4位の山口茜選手にとって東京オリンピックは地元開催のプレッシャーなかで「お世話になっている人たちが喜んでくれることは何かと考えたら、一番わかりやすいのは結果を出すことだ」ところが、大会が始まってみると自分のプレーができなかった。気づかぬうちに表情はこわばった「(見ている人を)勇気づけたいとか、いろいろ考えすぎた」。結果を出すためにコートに立つ。それはバドミントンと出会った時からの信念と少し違った」

楽しむー。3歳からラケットを握った。本格的に競技を始め、6歳の頃には近所の体育館で母親の打ったシャトルを追いかけては打ち返した。

「つなげろ!」と母。

「つなげる!」と答える山口。、1回でも多くのラリーが続けられることが楽しみだった。

 

自分のバドミントンの指導はどうだったのだろうか。私自身は選手経験ない。しかし、まず、スマッシュを打つ練習から始めた。要するに相手のコートに叩きつけることから始めた。私のバドミントンの師匠になる金沢中学校のバドミントン部顧問の後藤先生もそういう考えで指導されて全国2位まで突き進んでいる。よく後藤先生が口されてたのは「この天ぷら(あげてばっかり)」という言葉だった。私の勤務していた浜中と金沢中はバス一本で往復できる。毎月、体育館を確保するたびに後藤先生に連絡をとって練習をくり返した。浜中の生徒たちのバドミトンの技能も飛躍的に伸びた。しかし、市大会の抽選会で浜中と金沢中は皮肉なことに一回戦で当たってしまった。浜中の稲垣・澤崎組みと金沢中の鈴木・橋本組の熱戦は私が指導した男子ダブルス戦の中で一番の激戦だった。両者譲らずにスマッシュの応酬だった。

女子の指導も同じ路線だった。とにかく「打て!打て!」という指導だった。初めての横浜市大会女子団体優秀もそういう路線だった。中学校からラケットを握って勝ち抜いていくにはそれしかなかった。そして、県大会に進んで3位決定戦。関東大会を決めるゲームで本部席からやっと開放されてコートサイドに行った時には第2ダブルスの第3ゲームの始まり、平木先生が私の席の後ろに来てくれて「第1ゲームは打っていったけれどもやられてしまった。第2ゲームはドロップを混ぜてとることができた。こんちゃん。次のゲームはどういう指示をだす?」と言ってくれました。しかし、ゲームの経過を見ていない私は華代とグッサンに「練習してきたようにやりなさい」とだけ伝えるだけだった。それしか伝える言葉が思いつかなかった。今。考えてみるとジュニア出身選手にとってつながれるよりも打たれた方がラケットを合わせるだけで相手コートに返しやすいのである。まだ、顧問経験が浅かった私にはそれに気がつけなかった。

純子と由佳も同じ事をくり返してしまった。由佳の卒業前の作文を国語の石井先生が私に見せてくれた。それは県大会3位決定戦の「最後の一球が床に落ちていく場面」が書かれていた。

 

中学校3年間の中で「つなげる意識」は育てられないだろうか。

今はバドミントンは「詰め将棋」のようなものだと考えています。

かつての浜中は神奈川県で№.1の練習が一番の強みだった。「打って!打って!打ち抜く!」がモットーでした。普通のジュニアチームはどんどん粉砕していきました。

その中で大きな壁になったのが善行中の管先生でした。本当にどうして負けてしまうのか私は理解できませんでした。体格も負けていないスマッシュ力もフットワークも負ける気はしなかった。しかし、今考えてみると作られて作られていつの間にか追い込まれている。一つ一つのラリーに意味が合ったことに気がついたのは後のことだった。

しかし、バドミントンはゲームの始まり、ゲーム間しか指示を出せない。一度ゲームが始まれば、自分たちで判断するしかない。

そういう意味で最後にたずさわったあざみ野の選手たちはワンラリーごとに振り返りと次への備えができるまで育てることできた。 私が体調を崩して集中治療室にいる中で選手たちは戦い抜いてくれた。

その前提にはコートの隅々まで打てるコントロールが前提にある。中学校の3年間でそこまで育て上げるにはしっかりした育成プランが必要だ。

最終的な結果はどうであれ、バドミントンの「楽しさ」に触れることになると思う。