内田先生

初めてお目にかかったのは市大会の後、金沢中の後藤先生に連れられて、六角橋商店街の居酒屋で反省会に参加した時でした。すでに陽気に酔っ払っていました。お互いに貶し合ってワイワイやってました。平木先生や矢向中の金井先生もいろいろと指摘されていました。私はお酒が飲めないのでウーロン茶を飲みながら、参加してました。

ある時、内田先生から浜中へ電話がかかって、急いで内田先生がいらっしゃる平戸中へ行きました。

内田先生の組み合わせの模造紙が抽選会の後飲みに行って翌日、パソコンに入力して、プログラムをつくろうもしたら、模造紙はすでに、焼却炉で灰に、なっていたそうです。当時の私は練習試合の結果やオープン戦の結果を書いた分厚いファイルを持ち歩いていました。その姿を内田先生が思い出して、トーナメント表を再生しようとしていました。それがきっかけでバドミントンは素人ですが、中体連の書記になって、それから20年間の書記を務めることになりました。

しかし、選手を見極める目はきびしく。やっと明子が冬の新人戦で「強い子ちゃんマーク」、をいただきました。また、指導も素晴らしくたった1年間で奈良中を県大会まで進出させました。

そして、浜中10年目を迎え、一方バドミントン部内にいろいろ問題を抱えて学年の先生方を心配させていました。そんな時に内田先生か転勤してくることになりました。私は純子たちや航太たちを、抱えて、部活については実は行き詰まっていました。とうとう、大道中との練習試合中、私から見て、男子シングルスのY君のプレーが気力にかけてると見えました。無性に腹が立って、職員室へ帰ってしまいました。でもそんなわががまができたのは内田先生ががいらっしゃるおかげでした。

なんとか市大会に漕ぎ着けましたが、女子団体準々決勝。そこまでは内田先生が工夫をこらし、勝ち上がってきていました。そこでいつもお世話になってきた野庭中との対戦になって、女子チームはオーダーを書いて下さい。お願いに来ました。私は責任を持って、オーダー用紙を書きました。しかし、野庭にはにリベンジされてしまいました。県大会でも男子ダブルスが関東大会決めの場面で「こんちゃん、ここが勝負だからコートサイドに行きなさい。」と促しました。

志賀高原の合宿では日体大バレー部の隣で練習しました。私はあのミュンヘンで金メダルを取った時、ビック3の一角だった森田淳悟監督から「元気がいいね」と言われて、天にも昇る気持ちでした。

県大会後、内田先生がお休みを取られました。本当に激務だったと思います。

私の転勤後、浜中体育館で移動式ネットで6面取れるようにしてくれました。

若い顧問が入ってきて、浜中は再び横浜市大会で優勝できました。