あなたのようなblogを書いていると就職口がなくなる

私のblogには「怨み言」が並んでいる。それを私自身が止めることができない。先日、20年にわたる専門部の生活の恨み言を書いた。そういう恨み言を書いたblogを伝えているからいままだ、どこからも声が掛からなかったし、これからもかかる見込みがないだろう。とありました。

前向きな読んで良かったと思えるblogが書ければいいだろう。しかし、事実としてこういう出来事があったと書いていくことで変わっていくかともあると思います。

私の後、専門部の書記を継いだ方は選手名のデータを紛失したことで新聞沙汰になっている。それまでの20年そのようなことを起こさなかった。他の役員たちにその意味が本当にわかったのだろうか?確かに私の名前が役員名から消えた前年、私が深夜にトイレで倒れた。血糖値は700を超えていた。集中治療室に1週間。身体中にチューブが走っていた。冬の大会は私が不在で進んだ。そこが周りも潮時だと他の役員たちも見ての判断だったのだろう。それにしては遅すぎる退場だったと思う。もっと早く引き継ぎができていれば、今になって思う。そこまででどれだけ無理を重ねていたか。

退職後のリハビリがどれだけ厳しいものが。そんなものわからない。と断定されてじまった。精神科病棟の生活なんてどんなものかわからないと書かれてしまった。表題のような厳しい意見を寄せた方は普段から積極的に政治問題や社会問題に言及されている。私が不思議なのは、そういう方が精神医療にまったく興味を示していないこと。自分にはわからないことと切って捨てたこと。経験がなければ理解できない。という論理である。

反論します。こうした少数であっても厳しい思いをしてきた経験を書いて残すことに意味はないのでしょうか。そして、まだその中で苦しんでいる人間を「わからない」と切って捨てることが社会

正義なのですか?あなたの社会正義は社会の本名一部しか見ていませんか。見ているポーズをしているだけではないですか?多分あなたとは共感できない間柄になりそうなので今回で最後にしましょう。