寺尾中の思い出2

同じ年に採用された

同期は5人。最初の年からそれぞれの個性を発揮して頑張ってました。生活指導でバリバリがんばっていたり、教務で頑張っていたり、私は音楽科採用でしたが、社会科も少し持たせてもらいました。そこで「ベルバラ」のバスチーユ襲撃の場面を見せると、一人の女生徒はがみんなの前でオスカルのセリフを見事に演じました。そのことでじしんを持って、橘学園に進みました。橘学園は経団連の会長のの土光さんの家の真ん前です。土光さんは「メザシの土光」と呼ばれて、自ら質素倹約を実行していた人です.当時の橘はテストの点数よりも個性で選抜している学校でした。今では経営方針がずいぶん変わってしまいました.

悪戯されました。古典的な教室の入り口に黒板消しはさんでおく。それをクリアすると水の入ったバケツが待ってます.そして、教卓に向かうと空気清浄機がガタガタします。開けてみると、生徒がニコニコしています。

時には人数の合わない時があって、さがしにいくと、三ツ池で釣りをしてました。

音楽科のくせに合唱コンクールの、指導がうまくできませんでした。若い女性の音楽科の先生はその様子にいつもイライラしているのが、わかりました。

2年目になって学級担任になってもうまくいきません。なぜなら私は歴史の専門として、大学生活を、送ってきましたが.教育課程の勉強はおざなりで、何をどうすればいいか、ちっともわからずにいました。同期の中でも一番不器用でした。次の年もたくさんの新人がはいってきましたが、私はおくれるばかり、とうとう特殊学級(現在の個別支援学級)の担任になりました。特殊学級は前年度、生徒指導専任の、先生が立ち上げた教室で教室の中央にソファーがあり、コーヒーセットもありました。

特殊学級に前の年度から入級していた生徒が一人いました。確かに集団の中にいれてみると少し違うのかなという程度でほぼ自立できていました。

私が特殊学級の担当になった年、入学してきたK君は重い自閉症でした。お母さんに連れてこられて、教室にやってきました。ジャンプしながら何かとても落ち着かない様子でした。服はきちんと着ることができてました。ただ言葉が出てこないのです。うなり声をあげ続けています。とりあえず、登下校は一人できるそうでした。お母さんはとにかくお願いします。を繰り返していました。私にとってもはじめてのことでどういうことを確認したらいいかもわかりませんでした。何の授業するかも見当もつきませんでした。教室の片隅に木工室から持ってきた作業台があってその上にベニア板があって、そこにプラスチック片が接着剤で貼られたものがありました。ただ、まだ作業の始まったところという感じでした。

前の年から入級している子は「交流」教室に何度も参加して特殊学級と行き来してました。

私もK君も「交流」に出かけることになりました。そこから壁にぶちあたってしまいました。最初、若い体育の先生が担当になりました。体育館は特殊学級の隣です。授業が始まって、他の生徒に指示を与えてK君の様子を見ると「子守り」になってしまいました。授業にならないのです。同期の数学の先生が教室に呼んでくれましたが、数学どころではありません。結局、朝と帰りの学活に参加させてもらい、K君は私のところに戻って、カバンを持って、ガラス戸を開けて、帰りました。しかし、なんかしないといけない。まず、自閉症の勉強から入りました。K君は至って真面目に作業には取り組んでくれました。とても上手にはできないのですが、小さなプラスチック片をピンセットでつまんで、接着剤をつけてはベニア板の下絵の上に一つずつ載せていきました。

特殊学級の立ち上げをしてくれた先生は生徒指導専任をされていて、とても忙しくしてましたが、何度も顔を出してくれました。私が1年目、2年目に悩みを抱えながらいたのも、承知でいろいろ教師生活のアドバイスをしてくれました。同じ社会科の先生だったので教科の面もいろいろ教えてくれました。

そのうち、同期の仲間や保ちゃん、沼さんなども顔を出しました。しかし、学校内の特殊学級の認知は低く、教室の前を生徒たちが歩いていると、K君のうめき声が聞こえても、訳がわからないで通り過ぎて行きました。まずは職員室の先生方にK君はこんな様子だよ、と通信を職員室に、ばらまき始めました。「ひまわり通信」と名づけました。「一ニの三四郎」というまんがで三ツ池公園そばの保育園が舞台になっていたからです。特殊学級は先生方の一種の社交場になって、さまざまな教育論議が繰り広げられました。そういうことを通じて私もだんだん教師らしくなってきました。特殊学級の隣は保健室でした。保健室の先生が実は中学生の時の同級生で部活も一緒でした。そこでいろいろな話を聞くことができました。家もそばなので帰りに若い職員が近くのデニーズで、みんなで夕食をとりながら様々な話で盛り上がり、キリのいいところでクルマで国道1号線をつるんで走っていきました。

保健室の先生は私のクルマに乗って家まで送りました。そのうち朝も一緒に行くようになりました。

実は私の結婚式に寺尾中の生徒たちが現れて挨拶を、してくれたり、合唱してくれるように裏で仕組んでくれたようです。

あの日.K君がパニックを起こして、私の腕に噛みつきました。血が出た途端、彼は「救急車、救急車」と連呼して、私を、保健室へ連れて行って保健室の先生に、「山之内製薬のマキュロン」と、お願いするではありませんか。K君は車が大好きでした。学校の下校途中に国道1号線の上にかかっているメガネ橋でクルマが走っているを、見ながら、クルマの車種を叫んではジャンプを、繰り返している様子の目撃情報が入ってくるようになりました。こうしてK君との3年間が始まりました。文字も書けませんでしたが、タイプライターが教室にあったので、漢字が読めることがわかりました。

2年目、大変なことになりました。ダウン症の女子生徒が入級してきました。この子もほとんど言葉がありませんでした。そこにさらに難しい問題が持ち込まれました.「生理」がまだきてないので、もしもの場合をお願いされてしまいましたが、これは私にはわかりません。そんな時、保健室の先生にサポートしてもらうことになりました。私としては一安心でした.2年目からは音楽を中心に授業をすることにしました。練習曲は「一本でもニンジン」からはじまりました。そして、イルカの「川崎のキツネさん」のアルバムを買ってきて、二人は大きな声で歌えるようになりました

そして、いつのまにか、K君が教室にやってくる先生方にコーヒーをサービスすることを覚えました。

花壇にウサギ小屋を作って、ウサギを飼いました.小屋の中の掃除が日課になりました。

3年目にもダウン症の女子生徒が入級してきました。ちょっとおしゃまな子でしたが、すぐにクラスに慣れて、横浜市全体の特殊学級の発表会て、「川崎なキツネ君」を発表しました。

バドミントン部のお別れ会も特殊学級で開きました。はじめて最初からバドミントンを教えた子たちで涙涙のお別れ会になりました。その後、わたしが浜中に転任してからも、私の家まで遊びに来ました.