東京オリンピックとゴミ戦争

三丁目の夕日」という名作映画を見ていて当時の東京の路地裏の風景をよく見てほしいものあります。路地の角にコンクリート製のごみ入れあります。昭和30年代のごくあたりまえの風景です。これが一変される出来事が日本で起きました。1964年の東京オリンピックです。さまざまなごみが入れられて悪臭を放っていました。早急な解決が求められる中で考え出されたのが、各家庭からゴミがポリバケツで出されました。それを「夢の島」に運びました。しかし、このごみ回収回収場所は間もなく満杯になり、清掃車がどこを通るか、など問題化します。また、そこから「夢の島」から化学物質の分解に伴う、環境問題へ発展します。こうしたごみ回収場所は東京湾内を転々と移動します。例えば、いまでも東京湾内にあるゴルフ場によっては禁煙のところもあります。地下からメタンガスが発生しているわけです。そこで東京都は各区に清掃工場を作って各区ごとのごみ処理へと舵を切ります。

ところがその時、それとともに新しい問題が浮上してきました。当時、ベトナム戦争アメリカ軍が使用した枯葉剤による被害者の報道がされました。「ベトちゃ、ボクちゃん」の写真が新聞に出てきました。そしてその原因が「ダイオキシン」という化学物質であることを知りました。そこまでは他人事でした。ところが他人事でいられない事態が日本を覆いました。この「ダイオキシン」はとても簡単生成される。当時、ビニール袋など流行し始めました。これが低温で加熱処理すると「ダイオキシン」が発生する自分たちの健康問題につながってきました。ちょうど学校から焼却炉が消えた時期と重なります。これと同時に2つの流れが出てきます。強い火力を持つ清掃工場の建設、分別収集です。地方自治体によっては強力な火力の清掃工場の建設の予算がありません。その分、細かい分別を要求されるようになりました。

東京都なども一つの区の予算では厳しいものがありました。そこで各区間の争いが発生しています。

横浜市に転居してきた人たちが驚くのは分別収集が簡易なことです。市内に大きく火力の強い清掃工場を建設されました。

 

私は家庭事情でビル管理会社に再就職しました。そこで高級マンションの清掃を担当しました。廊下やエントランスはきれいになっています。ところが扉一枚、ゴミ倉庫をあけようものならごみ袋や段ボールが乱雑に放り込まれています。ゴミ袋を開けると分別以前の問題でした。身の危険を感じるようなゴミも出されていました。段ボールも投げ入れられているだけ…。それらを決まった曜日に分別して清掃車の時間に間に合うように出すことが要求されました。こんなところににほ日本の現代史の教材があります。

 

逆にさかのぼって100万都市江戸の環境問題はどのようになっていたかを考えさせてみても面白いと思います。