公民との出会い

高校時代は倫理社会の哲学の世界が好きでした。

しかし、大学時代、意外な形で公民と深く付き合うことになってしまった。大学2年の時にいきなり父が癌で亡くなってしまった。父が亡くなる朝まで私が寝ずの番をしていた。部屋の四隅に何かの気配を感じ続けてきた。朝の光が差し込み、他の家族が起きてきた時、私は眠りに入った。すると、心電図が異常をしらせ、父は亡くなった。片目がどうしても潰れない、無念の死だったと思う。葬式の朝、母方の叔父から献花や花輪やがどこからきてるか確認するように教えられた。

それからが大変な1ヶ月間がはじまった。保険会社とのやりとり、香典返しの処理。そこへ父方の叔父から1ヶ月後に親族会議を開くことを告げられた。

私たち家族は横浜に住んでいたが、まだ羽田に借地に祖母の住んでいるいえがあった。父は私たちが横浜に移っても羽田の家の地代を払い続けていた。小学校の時の親族会議はこれだったということが理解できました。

問題は前回の親族会議で伯父の一人が「おばあちゃんにも居住権がある」という発言をしていたことを母は覚えてました。そこで私と母の警戒心を引き起こす結果になってしまったのです。叔父たちの考えは祖母の処遇をどうするのかだったと思います。身体障害者の母とまだ大学生の私と高校生の妹では祖母を支えていけない。そこで一番上の叔母一家が越して来る腹づもりだったのでしょう。

しかし、それは長年羽田の家を守ってきた父の遺志ではないと考えました。そこでさまざまな父の関係の法的処置を終わると、一気に民法の学習。特に相続関係の学習が始まりました。その際、私の学習を支えてくれたのは父の幼馴染で偶然、横浜に越して来ていた裁判所の事務官の方でした。私なりに学習してきたことを補強してもらいました.

親族会議の冒頭、思った通り「居住権」という言葉が出てきたところで「六法全書」の中に「居住権」という言葉はありません。と、ピシャリとしたところから、むしろ父の相続権は二十歳を超えた私にある。と宣言しました。その後、地代も私が払い

続けることになりました。祖母の扶養は叔父が受け継ぐことになりました。

このような経過があり、実体験に基づいた相続の授業に繋がりました。

 

もう一つは何特殊学級での体験が大きかったです。もしも.自分自身に障害を持った子供を授かったことがわかった時、どう判断するかを、生徒たちに問いました。

 

そして.現在、一家全員が精神障害者の家を支えなければいけない現実と闘う日々が続いています。

 

また、政治面では羽田の家にいた頃、毎晩のようにデモ隊が羽田空港へ押しかけている足音で目が覚めます。デモ隊のゲバ棒や投石用の石はどのように手に入れていたか学んでしまいました。そして、岡林信康の「友よ」やアメリカから入ってきたプロテストソングを多く聞くことになりました。

また、中学生の時、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて、」を読みました。その後、ユーミンの「いちご白書をもう一度」のYouTubeを見ていると、まさにこんなふうだったな。と思い出すことができます。

立て看板が立っているし、学部の中庭で学校側のガードマンと学生のぶつかり合い、ロックアウトを体験しました。