文化祭の行方 2

私の前の特別活動指導部長は戸崎先生でした。

戸崎先生は何度も何度もリーダー研修を開きました。時には

宿泊で話し合ったこともあります。

私は文化祭などの行事を通じて、一般生徒も含めてみんなが楽しい学校作りを目指しました。

もちろん、実行するにあたっては、英輝先生のようなブレーンや特別活動指導部全体のまとまりが良かったことが私を助けてくれました。

また、歴代の教務主任の先生と綿密に打ち合わせながら日程を組めたことも大きかったと思います。

担任したばかりの頃の浜中は担任の先生が朝学活で生徒たちから貴重品をバックいれてもらって、担任は貴重品のバックを持って移動していました。廊下に白い線がありました。それ以上スカートが長いと指導される状態でした。それから10年後の浜中の生徒はそんな記憶は全くありませんでした。まずは生活指導の先生方が体を張って生徒を守ってくれたことが生徒の信頼につながったと思います。

それと同時に楽しい学校作りも両輪になって動いたことだと思います。

学校行事の中で特別活動指導部は文化祭に力をいれてきました。生徒数、クラス数も減って、全校生徒が体育館に揃って文化祭の開会式が行われるようになりました。

普段、体育館の部活動でいろいろ使っているものを最大限に活用する形で、開会式が行われるようになりました。

バスケットボードはボタンひとつで上下します。これにバルコニーとバスケットボードの間に様々な色のビニールテープを結びつけます。音楽科の先生が作曲したファンファーレをブラスバンド部が演奏します。すると、バスケットボードが上がって行きます。バスケットボードには直径1mの発砲スチロールの白い球がぶら下がっています。一番上まで行ったところで白い球が両方のバルコニーから糸を一気に引くと、垂れ幕が落ちて、この年の文化祭のテーマを発表した年もありました。

文化祭の開会式でいきなり全ての電球を落として真っ暗にします。そして、もう一度、電球のスイッチを入れても水銀灯はすぐには明るくなりません。中央の残置灯の下だけが明るくなります.そこにいつの間に

ドレスに背中に羽を付けた妖精の姿の新体操部の実行委員が踊りながら階段を駆け上がり、ハリボテで作った岩に一つ一つバトンで軽く叩くと実行委員たちが仮装して出てきます。そして、実行委員長から開会を宣言します。

こういう形で一般生徒の知らない体育館の仕組みを利用しました。

そして、毎年、文化祭実行委員を連れて、横浜西口の東急ハンズへ買い物へいきます。いろいろなアイデアがそこで浮かび、買い物をして帰りました。

芸術鑑賞では肥後校長が神奈川フィルハーモニーを呼ぼうと言ってくれました。しかし、浜中体育館では音響の問題があります。すると肥後校長は各方面に手を回して関内ホールをかくほしていただきました。私は文化祭全体を見渡さなければいけない状況でしたが、生活指導部の伊藤先生が「俺に任せろ」ということで関内駅から関内ホールへの地図を作り、道々に生活指導部の先生方が道案内に立っていただきました。

素晴らしい演奏の最後は交響曲に編曲された浜中校歌でした。

その素晴らしい演奏の間も生活指導部の先生方はずっと遅れてくる生徒はいないか、道に迷っている生徒がいないか、ずっと立って関内ホールから全ての生徒が関内駅から帰るまで立ち続けてくれました。

こうした生活指導部との連携がなければ、どんな行事も成立しなかったと思います。