文化祭の行方

特別活動指導部での大きなしごとは文化祭の見直しだった。それまで学級発表、合唱コンクール、芸術鑑賞の3本立てだった。しかし、そこに「行事の精選」という、言葉が文科省より出された。その分を授業時間に回そう。と、いう話であった。特に狙われたのは学級発表を削れないかという意見が出されていた。しかしこの動きに若手の先生方が抵抗した。職員会議で意見は二分された。学校全体の意見は二分されたままで、「自由参加」という方針になった。若手の先生方は必死にアイデアを捻った。沢野先生はカセットテープ野ケースを使ったドミノ倒し、英輝先生は姫路城の巨大模型など…。ここで踏ん張らなととはをくいしばっていた。

そんな時、2年から担任してきた先生にファミレスにら呼び出された。散々に「自由参加」について、突かれ続けた。

文化祭実行委員会も連日、会議を開いた。学校全体が参加できる文化祭をどう作るか、議論をくりかえした。

そして、文化祭の最後を、全校生徒によるフォークダンスをしてみよう。となった。

しかし、昼休み、フォークダンスの練習を呼びかけても、一向に反応がなかった。文化祭実行委員たちも不安が募ったまま文化祭をむかえた。

当日もなかなか動く気配がない。そこに、放送室から生徒会長の香津が全校生徒へ呼びかけをはじめました。すると、だんだんとグラウンドに生徒たちがあつまりはじめ、とうとう全校生徒がグラウンドへ出てきました。おんがくにあわせて、フォークダンスが始まりました。そして、グラウンドで閉会式になりました。文化祭実行委員長は涙涙で挨拶になりませんでした。それを見た一人の先生が私のもとに来て、「金剛地さんやったね。あの涙がすべてだよ」と声を掛けてきました。次の学年の職員会議では全学級参加による学級発表が実現しました。