こんなところに地区センターができていた。

今日は朝からずっと落ち込んでいました。ショックも癒えないまま病院へ書類の作成に行き、自転車の駐輪場で更新手続きをした後、生活支援センターです行われる傾聴に参加した、私の身体の不調を見かねて気晴らしに傾聴ボランティアを勧めて入れました。した久しぶりの経験ですある的ど、気持ちが楽な鳴りました。吐き出すものを吐き出さないと

どんどん腹の中に溜まってしまいそうでした。傾聴活動の場所、日程を確かめている時、会場確保の難しさの話になりました。私もコロナ禍てそれまで続いていたWRAP(.元気回復行動プラン)クラスが中断されました。やはり会場確保は難しかったです。

都筑区内のさまざまな地区センターなどなかなか空きのない状況ですらすると傾聴のボランティアさんが家のすぐそばに新しい地区センターができなので空き部屋がありそう。という情報を受けて直ぐ電話連絡して、家からと近いのですぐに伺うことにした。私の要望を伝え、施設内を案内していただいた。私には二つやりたいことがある旨を与えることができました。この新しい地区センターを拠点に様々な活動側感がありました。

楽しみです。

また、捨てられました。

昨日、バドミントン指導員のお話しを、いただいていた学校から指導員の話しが消えてしまいました。

教育委員会に尋ねたところバドミントン部の指導員を募集したいたのは2.校長しかなく、順番待ちだそうだ。指導力、経験、理論全ての面で私を上回る人材があるなら教えて欲しい。今日は心当たりを必死にあたったが、まったくダメだった。私の専門部20年の経歴を何と心得ているのだろう。

すでに名古屋大学内田良先生、神奈川新聞にはblogをあってある。どう動くだろうか?

使い捨てられた挙句…

校長面接です面食らいました。「県大会優勝」という言葉が出たのです。着任式後、保護者に囲まれて「せめて関東大会まで行かないと、うちの子の進路はないんです。夜の練習にOBが来て「金剛地先生が来てくれたんだ。もう、大丈夫だ」

f:id:konti53:20240325082837j:image前任校の日吉台では確かにいろいろとあった。しかし、バドミントン部は年中無休状態だったところへ居場所のない生徒を担任を通じて預かっていた。7年目、一年生に有望な生徒たちに恵まれた。進路主任の仕事を離れ、担任に戻った。学年も新しい人が多く入り活気に満ちていた。転任してきたばかりの英語教諭から学年旅行は海外にしましょう。という発案。自然教室の下見も学年職員の大半が参加する。

しかし、私はこの一年で日吉台を去らなければならなかった。前年度の人事で社会科教員が不足した際、非常勤でも臨時任用でも良かったはずなのに、正規職員を持って来た。つまり私の過員はすでに決定していた。それまで校長は私の学年の「荒れ」の責任を一身に負わさせて進路主任に据えると、ゆとり教育に対応するため私に進路主任の通常業務に加えて、職業体験学習の立ち上げを私一人でやることとした。業務は二重になった。職員体験学習をどういう形でやるかからも丸投げされ、それでも地道に協力していただける業者や専門家を開拓していた。同時に中体連の仕事からも離れることはできなかった。さらに教科書会社より新しく歴史教科書を作りたいので検定前の白表紙本の校正の仕事も加わっていた。何重もの仕事を同時にこなし続けていた。

新しいクラスはとても恵まれていた。活気あふれるクラスだった。学年職員からの信頼も厚く、上級生が一年生をからかいに来れば学年職員が呼びに来てその場に急行していた。あの大半学年のNo.12年続けて担任していたことを上級生たちは知っている。

学年末の学年旅行で「来年は自分はいないよ」と明かすと、学年職員は慰留した。中には一晩慰留し続けた職員もいた。しかし、校長から見れば体育館をぽぽ使用し続けているのがどうしても納得できないし、新しく転勤して来た新しい運動部の顧問たちの不満もたまっていた。

そういう今ではある程度仕方ない雰囲気もないではなかった。

そこで校長の紹介して来た学校が末吉中だった。

秋のオープンの団体戦で末吉は準優勝した。裏には旭区No.1プレーヤーの岩切が保護者の「団体様を経験させてあげたい」意向に末吉中の顧問の菅野先生が答え、菅野先生の巧みな作戦であったことは私本部で大会運営はわかっていた。それが冒頭の校長の勘違いに繋がった。末吉中の第二顧問の吉村先生も私のところへ転勤の意向を確かめた。

写真を見ていていただけると、分かる通り、3年生か3人しかいない。シングルスのは県大会で戦えるクラス。しかし、ダブルスは菅野先生のノックでなければ育たない。バドミントン未経験者の私はそれはできない。春合宿でよく3人を観察して私は確信した。どうしても一つの戦略しかない。当然。一番自分のクラス経営である。学年主任はとてもその辺りを気がしていた。しかし、学年職員の構成がわるかった。学年の中で若い職員とベテラン職員の中に挟まって同世代の職員がいない。

自然教室のスタンツの失敗からクラスの生徒の信頼感を失っていた。

末吉は地域的に生徒指導の困難な地域で運動部なので盛り上げてきていいた。菅野先生のバドミントン部の後任として鳴り物入りで転勤して来たわたしに運動部の周りには全国的な活躍されている顧問の先生が注目している。毎日、私は胸を締め付けられる思いで過ごしていた。

一方で浜中での10年間や社会科研究会での私の噂を伝え聴いている職員もいる。期待はさまざまに膨れ上がったいた。

しかし、優先順位は県大会優勝しかなかった。一番困難な道を自分は選んでしまった。県大会強化練習会は仕方ない。これは自分がいなければ大会運営そのものが成り立たない。後は地下に潜ることにした。シングルスの中側だけオープンさんへの参加を許した。後は新入生と3何ダブルスは男子で神奈川県No.1チーム大道中は通い、徹底なパターン練習と手投げノックを繰り返した。菅野先生の縦横無尽なノックで育って来た4人の不満は膨らんでいた。

しかし、私は頑なにこの練習をさせていた、あからさまに吉崎は「先生!なんで勝たせてくれないの!」と迫った。

夏の市大会、中山中戦の生徒たちの危惧した事態が起きた。市大会はベスト8で県大会誌や出場を決めたが、それが私の作戦の序章であるとは誰も気がつかなっただろう。一方で剛をにやした菅野先生が動いた。自分の体育館へ彼女たちを呼んで練習させた。彼女たちは水を得た魚のように練習する声を後にその学校を去った。県大会の抽選会各ブロックから勝ち上がって来たチームから4シードが決まった。そして、次々と決まっていく中で末吉中の抽選を待った。川崎1位のチームのシード下に潜り込んだ。決まった瞬間。その学校は第一顧問が出張で不在だった。第二顧問が携帯で悲痛な「金剛地先生が下に入ってしまいました」と電話していた。

ベスト8でなければシード下には入れないことを私は知っていた。

開会式後の初戦は問題なく勝ち上がった。翌朝から二回戦から始まる。いきなりシード校に当たる。

ここにすべてを賭けていた。生徒たちが待ちに待っていたオーダーをぶつけた。もちろんこのオーダーについては相手も警戒してはいた。しかし、オーダー交換した時点で相手の顧問はやられた!と顔になった。それまでに一年生ダブルスも成長していて、楽に勝たせてくれない。そしてシングルスでタイに第二ダブルス勝負。そこまで温存してきた第一ダブルスが襲いかかった。勝負はあった。

三回戦以降のチームも私がどう出てくるか読めないまま破れていった。関東大会出場を賭けた準決勝、相手の東鴨居は全員ジュニア出身者でまったく隙のないチームのはずだった。ただ一つの隙は顧問だった。彼はそれまでに何度となく私に煮湯を飲まされている。明らかに動揺している。顧問の動揺は選手に伝染する。シングルス勝負、もし、市大会で当たって仕舞えば、こちらの打つ手がわかられてしまう。横浜市の強化練習会から抜けたのはこの時のためである。そして、そこまで中側の体力も限界に達している。万が一、3位決定戦で勝ち抜ける余裕はない。全力で最初から飛ばさせた。絶対的エースを破られた後、普段だったら勝てなかった大人ダブルス勝負に勝った。関東大会出場を決めた。決勝は中側は明らかにスタミナ切れだった。

以上がその日1日ことである。

まさに勝つためには手段を選ばなかった日々が終わった私は燃え尽きた。

 

そして、クラスに戻ってきた時、もうクラスは荒廃して手の打ちようもなく、一年で末吉を去った。

 

 

「部活はそんなに悪者なのか」

部活関係の書籍を洗い出している中で、上記の本に当たりました。一顧問としては共感できる面もありました。しかし、運営する側の視点がまったく欠けていました。出版社へ質問を送りました。この経過はブログて経過を辿りたいです。

バドミントン専門部への公開質問状

私はバドミントン選手経験もなく、20年も専門部書記として活動しました。とても不思議なことです。

きっかけ大会の抽選会が終わって役員たちは飲みに出掛けてしまいました。その間に用務員さんがトーナメント表の模造紙をゴミだと思って焼却炉へ入れて焼いてしまいました。よく朝、役員会は大騒ぎになります。そのとき、分厚いファイルに各学校のデータを持ち歩いていた私の姿が浮かんだそうです。そこで私のデータを元にトーナメント表の偽造か始まりました。大不祥事です。それ以降の抽選会てはその端私がPC打ち込んでしまいました。その後、学校に戻ると一回戦は審判用紙をすべて書き上げした。当日は結果が上がってくるたびに新しい審判用紙を書かなければいけません。私は本部席を立つことができませんでした。自分の学校の生徒の試合のコートサイドに立つためには決勝まで行ってそこで結果のまとめがほぼで限ったのを確認してからです。それでも何とかなっていたのはチームの中で常に戦況を伝えてくれていた生徒がいたからです。

役員となっていても自分の学校へへばりついている顧問もいました。それどそろか自分の学校のダブルスが私の学校のダブルスに負けた途端、帰る、帰ると、叫んで同じブロックの先生たちから宥めらていた先生もいましたが、もし私が同じことをしたら試合は止まります。

リーグ戦の順位をその場で計算していくExcelのフォーマットをつくり..順位計算を手早くできるようにしました。一点差で並んでしまうとか私のPCに注目が集まります。そのリーグ戦の結果次第で夏の大会のシードが決まるからです。

PCを使うとなれば、電源が必要です。各体育館のコンセントの場所を把握した上で持参した電源ドラム遠伸ばして本部席を設営します。椅子やテーブルの在処も把握済みでした。他の役員のみなさんは当たり前のように本部席についてました。

大会が終われば役員の皆さんは「反省会」へ出かけます。その間に私は試合結果を印刷して中体連本部や各メディアにFAXで送ります。しかし、会場のFAXを使わせていただけなくてコンビニを探して何枚もFを送らないと催促の電話が入ります。

「反省会」が終わったころ、やっと合流できればいい方です。ご苦労様ま、何もありません。みなさんはすでに酔っ払っています。

私の車には常にPC、プリンター、審判用紙、バインダー、鉛筆、選手の荷物を入れる折り畳みのカゴを体育館のバドミントンコート✖️2.ずつ用意してます。それらを運ぶカーと、電源ドラムを積んでいます。走る大会本部です。絶対に体育館に一番乗りしなければならないのです。そして片付けは一番最後になります。

日本協会の開発した大会運営ソフトを導入したことはさらに私の首を絞めました。いつのソフトで事前に選手名簿を入力してあればトーナメント表、リーグ戦表が自動で出来上がります。選手名簿を事前に入力する手間は誰がやるのでわずか?そしてここで大会のプログラムが作成できるわけですが、親の気持ちになって下さい。字の間違えは許されますか?中には達筆な選手名簿が送られてくると、解読作業や確認電話が必要です。ブロックによって選手名簿が遅れると、どうなりますか?まだインターネットの普及していない時代、ブロックからFAXで送ってくることになりますが。同じ学校内に別の専門部役員のいる場合や学校まで戻る時間が惜しい場合、どうしたと思いますか?私はPC宛にFAXを送り、それがPC上の画面に送られたものを印刷するソフトを利用していました。

大会運営ソフトはとても便利なものですが、初期の段階では非常に不安定で他県から集まったオープン戦の時にそれまでのデータが飛んでしまったことがありました。私はバックアップのUSBを用意してあったのでデータの復旧と試合進行を同時に進めて最終的に辻褄を合わせた私にどれだけの役員が気がついていましたか?

県合宿は年4回、私はすべて参加です。自分のチームは置いてこなければならないのです。合宿の☀️、朝練習、準備体操から始まって周回コースのランニング。最初はコースを確認するため、一緒に走ります。その後、タイム走。そのまま朝食指導。部屋に戻って荷物を持って体育館へ移動、本部設営。もう1人、選手たちのためのポカリスエットやエネルゲンの粉末を水に溶かして選手が飲めるように用意したり弁当を配ったり、ゴミの片付けをしてくださっている先生がいた。練習が終わった後、入浴の順番を連絡する。そして就寝指導。その間、大きな部屋では「反省会」です。

2人でこうした裏方をしていました。あの合宿で先生方のランキングを書いた模造紙が貼り出され、対応する県名が出ていました。頂点は強化部長、そして一番下にわたしの名前がありました。私は裏方の仕事で目一杯忙しきし、ではこのようなランキングを描くならば朝練習や朝食指導、夕食指導など一緒にやってくれますか?そういう裏方の仕事を無視したこういう扱いされることはとても不愉快です。コート場のバドミントンがうまい人だけ集まれば合宿は成立するのですか?

もう一つ大変な不祥事がありました。「反省会」の終わった後、私の寝ている布団に潜り込んで身体を触る方がいました。からは性被害ではありませんか?その方は酩酊されていたようでそのまま寝てしまいました。覚えていないでしょう。また、故人なので確かめようもありません。

こういう体質の問題は今は解決してますか。

 

確かにバドミントン経験者や運動神経の優れた方はノックも上手です。大会となればその腕前を披露されていますが、不器用でそうことのできない顧問はどうすればいいのですか?私は自分のチームが決勝にすすんだとき、ノックしようとしたら自分の生徒から拒否されています。以来、そういう真似はしてません。だけどそういうことのできない顧問は著しく傷つくのです。

今の私でしたらこうすればいいというものがありますが、まだ子供の生徒は残酷ですよ。

そういう意味で最初の段階のきちんとした指導の講座を開くという発想はないのですか?

今の私は私人ですから中体連と関係なくいろいろとお話しできます。はっきり申し上げると、強化練習会の順位にこだわり、シードを主張する傾向が強いと聞いています。そんなことに耳を貸す前にいきなり管理職よりバドミントン顧問を命じられて困っている顧問がたくさんいます。こうした顧問たちの講習会を開こうと思わないのですか?

もう一つ、なぜ強化練習会の引率人数に制限をつけたのですか?より多くの生徒たちにバドミントンは、すごいと感じ、より普及させていくことも強化練習会の目的の一つではなかったのですか?

一部の学校、父一部の生徒のための専門部でいいのですか?

ぜひ回答を待っております。

 

 

勉強するって何だろう?

私の妻は私と同じ大学で特待生、卒業の時は総長賞を叙され。金時計を持っている。大変に親孝行な娘であったと思う。義父はとてもそれが誇らしげにしていたし、私が母方の実家に行くと、そういうステータスに目がない叔父や叔母から見ると光り輝く存在だったようだ。それに引き換え家が貧困だったが故、奨学金をもらっていた私はともすれば教授と正面衝突していて、必修科目で不可をつけられてレポート提出の憂き目に会うし、調査で千葉に行った。、と親戚が聞けば「三里塚」に行ったんじゃないかと、全く信用置けない存在。しかも、仕事もあまりにも抱えすぎた挙句、早期退職、障害者認定ととんでもない人生を歩んでしまったな、と思います。しかし、たくさんの出会いもあったし、こうして苦しい境遇でもなんだかんだと支えてもらえている。今、妻は淋しい、淋しい….と訪問看護師さんや生活支援センターからの職員にやっと話せるようになった。夕食時、私と娘、息子が話で盛り上がっていても話題に入っていけず、硬い表情になってしまう。

私にはいい成績を取ることはできない。事務仕事も苦手、金銭感覚も杜撰。欠点は上げれば数えきれない。ただ、今の家の中で楽しい会話を交わしている。この差は何から生まれたのだろう。

高校の非常勤講師をしている時、教員生活で初めて「辞職して下さい」という言葉をぶつけられた。手を焼いた生徒たちはたくさんいた。しかし、こういう表現をする生徒に出会ったことはなかった。

この史実の裏側にあるものは「評価」だと思う。つまり猫を被っていながら、私が「評価」する立場で亡くなった途端にこうしたことが行われたわけだ。

今の学生たちがどれだけ「評価」という言葉で動いているいるのかよくわかるエピソードだと思う。

私の高校時代はまさに再春を謳歌していた。

日本史の教科担任とのやりとりは楽しかった。あゝじゃない、こうじゃないと議論をふっかけていた。正直言って高校の非常勤講師のお話をいただいて、そんな光景を楽しみにしていたのだ。期待は裏切られた。ひたすらプロジェクターのスライドを写していく作業が続く、それどころか、スライドが醜い、と「正解」をGoogle class roomで送ってくれ!と始まった。歴史に「正解」などあるわけない。が私の持論だが、あいにく定期テストマークシートで70展、残りも単純な人名や用語を記載させるのみ。

彼らが「正解」を求める理由はここにある。レポート課題を出されて右往左往。これから社会に出て必要な能力がこれで育てられるのだろうか?

確かに「いい成績」をとることは大変なことだと思うが。

現に精神的危機に私は陥ってはいる。それでもこうしてブログを書いたり、LINEを送ったり、ピアノを練習したり、カラオケで何曲も歌ったり。堪えている。まだ、マシなのだろう。

 

 

ミュンヘンオリンピック

ミュンヘンオリンピック。私は楽しみで仕方がなかった。男子バレーボールが東京で銅、メキシコです銀、もう金メダルしかない。テレビでも男子バレーボールチームのアニメ番組が流されて気分は盛り上がっていた。

しかし、そこにアラブのテロリストがイスラエル選手団を人質にとって立て篭もる事件が起きた。しかし、西ドイツ警察による救出作戦が失敗して人質全員及び警官も死亡してしまう。オリンピック史上あり得ない事件が起きてしまった。

オリンピックは中止すべきか、続行すべきかやれる中でIOC会長は続行を宣言した。オリンピックと政治の関係について毅然とした態度が示された。そのことによって男子バレーボールの金メダルなど感動があった。

さらに引き換え、私たちの世代のスポーツ選手にとってとんでもない悲劇が起きた。モスクワオリンピックである。当時のソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議する形で西側諸国の多くが不参加を表明していった。しかし、4年に1回のオリンピックにピークを合わせることはアスリートにとって、大変困難なことなのです。私もささやかな横浜市大会、神奈川県大会に生徒たちのピークを合わせるのは本当に難しいのです。

参加を訴える柔道の山下泰裕レスリンクの高田、マラソン瀬古利彦…。涙ながらに訴える映像がTVで流れていました。しかし、いきなりそこへ政治家が割り込み、不参加となりました。その政治家もスポーツ選手経験のある人であったにも関わらずです。

次のロサンゼルスオリンピックは東側諸国が不参加という報復。政治家たちは何を考えているのでしょう。

一方でロサンゼルスオリンピックは大成功を収めます。組織委員長によってオリンピックが儲かるものに変化してしまったのです。

私も中体連で合宿をするのに生徒の参加費だけで足りると思いますか?全国大会の時、コートマットを使いました。コート一面分で100万円するのです。どうやってこの費用を用立てていたと思いますか。役員の先生の中には企業を回ってスポンサーをお願いしなければ大会はできません。

たかが県中体連レベルでもそういう苦労があります。まして、関東、全国となれば宿舎の確保は大変なことになります。

実際に2020東京オリンピックが予定通り行われた場合、高校のインターハイが関東開催だったのです。役員の方々の苦労はだったでしょうか。TOKYOと呼ばれて飛び上がっている招致委員会はそういう日程を理解していたのでしょうか。高校生にとってもたった一度のチャンスになるのです。

正直、あの時の招致に成功してニヤニヤしていた政治家たちの顔、そして、コロナ放電でいきなりの決断を下したのも同じ政治家ですよね。まるで自分が万能の神のような…

「花咲く頃に君たちは」の若者たちの叫び届いていますか?たった一度の青春を吹っ飛ばされた彼らの世代。どれだけ悔しかったのでしょう。自分がやってきた積み重ねが一気に消されてしまった悲しみを大人は心から共有できますか?

政治家たちは若者を何だと思っているのでしょう。

さらにスポーツの陰で利権を貪る大人たち。

スポーツをより良い環境で味合わせたい気持ちとそれに伴う費用、本当に現場は悩んでいます。