使い捨てられた挙句…

校長面接です面食らいました。「県大会優勝」という言葉が出たのです。着任式後、保護者に囲まれて「せめて関東大会まで行かないと、うちの子の進路はないんです。夜の練習にOBが来て「金剛地先生が来てくれたんだ。もう、大丈夫だ」

f:id:konti53:20240325082837j:image前任校の日吉台では確かにいろいろとあった。しかし、バドミントン部は年中無休状態だったところへ居場所のない生徒を担任を通じて預かっていた。7年目、一年生に有望な生徒たちに恵まれた。進路主任の仕事を離れ、担任に戻った。学年も新しい人が多く入り活気に満ちていた。転任してきたばかりの英語教諭から学年旅行は海外にしましょう。という発案。自然教室の下見も学年職員の大半が参加する。

しかし、私はこの一年で日吉台を去らなければならなかった。前年度の人事で社会科教員が不足した際、非常勤でも臨時任用でも良かったはずなのに、正規職員を持って来た。つまり私の過員はすでに決定していた。それまで校長は私の学年の「荒れ」の責任を一身に負わさせて進路主任に据えると、ゆとり教育に対応するため私に進路主任の通常業務に加えて、職業体験学習の立ち上げを私一人でやることとした。業務は二重になった。職員体験学習をどういう形でやるかからも丸投げされ、それでも地道に協力していただける業者や専門家を開拓していた。同時に中体連の仕事からも離れることはできなかった。さらに教科書会社より新しく歴史教科書を作りたいので検定前の白表紙本の校正の仕事も加わっていた。何重もの仕事を同時にこなし続けていた。

新しいクラスはとても恵まれていた。活気あふれるクラスだった。学年職員からの信頼も厚く、上級生が一年生をからかいに来れば学年職員が呼びに来てその場に急行していた。あの大半学年のNo.12年続けて担任していたことを上級生たちは知っている。

学年末の学年旅行で「来年は自分はいないよ」と明かすと、学年職員は慰留した。中には一晩慰留し続けた職員もいた。しかし、校長から見れば体育館をぽぽ使用し続けているのがどうしても納得できないし、新しく転勤して来た新しい運動部の顧問たちの不満もたまっていた。

そういう今ではある程度仕方ない雰囲気もないではなかった。

そこで校長の紹介して来た学校が末吉中だった。

秋のオープンの団体戦で末吉は準優勝した。裏には旭区No.1プレーヤーの岩切が保護者の「団体様を経験させてあげたい」意向に末吉中の顧問の菅野先生が答え、菅野先生の巧みな作戦であったことは私本部で大会運営はわかっていた。それが冒頭の校長の勘違いに繋がった。末吉中の第二顧問の吉村先生も私のところへ転勤の意向を確かめた。

写真を見ていていただけると、分かる通り、3年生か3人しかいない。シングルスのは県大会で戦えるクラス。しかし、ダブルスは菅野先生のノックでなければ育たない。バドミントン未経験者の私はそれはできない。春合宿でよく3人を観察して私は確信した。どうしても一つの戦略しかない。当然。一番自分のクラス経営である。学年主任はとてもその辺りを気がしていた。しかし、学年職員の構成がわるかった。学年の中で若い職員とベテラン職員の中に挟まって同世代の職員がいない。

自然教室のスタンツの失敗からクラスの生徒の信頼感を失っていた。

末吉は地域的に生徒指導の困難な地域で運動部なので盛り上げてきていいた。菅野先生のバドミントン部の後任として鳴り物入りで転勤して来たわたしに運動部の周りには全国的な活躍されている顧問の先生が注目している。毎日、私は胸を締め付けられる思いで過ごしていた。

一方で浜中での10年間や社会科研究会での私の噂を伝え聴いている職員もいる。期待はさまざまに膨れ上がったいた。

しかし、優先順位は県大会優勝しかなかった。一番困難な道を自分は選んでしまった。県大会強化練習会は仕方ない。これは自分がいなければ大会運営そのものが成り立たない。後は地下に潜ることにした。シングルスの中側だけオープンさんへの参加を許した。後は新入生と3何ダブルスは男子で神奈川県No.1チーム大道中は通い、徹底なパターン練習と手投げノックを繰り返した。菅野先生の縦横無尽なノックで育って来た4人の不満は膨らんでいた。

しかし、私は頑なにこの練習をさせていた、あからさまに吉崎は「先生!なんで勝たせてくれないの!」と迫った。

夏の市大会、中山中戦の生徒たちの危惧した事態が起きた。市大会はベスト8で県大会誌や出場を決めたが、それが私の作戦の序章であるとは誰も気がつかなっただろう。一方で剛をにやした菅野先生が動いた。自分の体育館へ彼女たちを呼んで練習させた。彼女たちは水を得た魚のように練習する声を後にその学校を去った。県大会の抽選会各ブロックから勝ち上がって来たチームから4シードが決まった。そして、次々と決まっていく中で末吉中の抽選を待った。川崎1位のチームのシード下に潜り込んだ。決まった瞬間。その学校は第一顧問が出張で不在だった。第二顧問が携帯で悲痛な「金剛地先生が下に入ってしまいました」と電話していた。

ベスト8でなければシード下には入れないことを私は知っていた。

開会式後の初戦は問題なく勝ち上がった。翌朝から二回戦から始まる。いきなりシード校に当たる。

ここにすべてを賭けていた。生徒たちが待ちに待っていたオーダーをぶつけた。もちろんこのオーダーについては相手も警戒してはいた。しかし、オーダー交換した時点で相手の顧問はやられた!と顔になった。それまでに一年生ダブルスも成長していて、楽に勝たせてくれない。そしてシングルスでタイに第二ダブルス勝負。そこまで温存してきた第一ダブルスが襲いかかった。勝負はあった。

三回戦以降のチームも私がどう出てくるか読めないまま破れていった。関東大会出場を賭けた準決勝、相手の東鴨居は全員ジュニア出身者でまったく隙のないチームのはずだった。ただ一つの隙は顧問だった。彼はそれまでに何度となく私に煮湯を飲まされている。明らかに動揺している。顧問の動揺は選手に伝染する。シングルス勝負、もし、市大会で当たって仕舞えば、こちらの打つ手がわかられてしまう。横浜市の強化練習会から抜けたのはこの時のためである。そして、そこまで中側の体力も限界に達している。万が一、3位決定戦で勝ち抜ける余裕はない。全力で最初から飛ばさせた。絶対的エースを破られた後、普段だったら勝てなかった大人ダブルス勝負に勝った。関東大会出場を決めた。決勝は中側は明らかにスタミナ切れだった。

以上がその日1日ことである。

まさに勝つためには手段を選ばなかった日々が終わった私は燃え尽きた。

 

そして、クラスに戻ってきた時、もうクラスは荒廃して手の打ちようもなく、一年で末吉を去った。