オーダー勝負

末吉に転任するにあたって県大会優勝。少なくとも関東大会出場が最低ラインだった。しかし、春合宿で見た末吉は3年は3人だけ。あとは新入生待ちという状態だった。本部席で見ていて3年ダブルスは個人戦で県大会に行けばいい程度。シングルスが頑張って個人戦でベスト4程度。つまりこのチームには団体戦しか勝ち目がないのがわかっていた。それでも何故春合宿まで選ばれたかといえば、前任の菅野先生のマジックに他ならない。

私は冷静に見られる立場にはいた自分には菅野先生のようなマジックは無理だ。できる作戦は一つしかない。だからそれを絶対に見せない方針を立てた。県強化練習会でとりあえず2部の2位をキープし続けて、あとは学校に帰れば基礎練習の繰り返し、週末は男子のNo.1チームの大道と合同練習。練習試合はしない。あくまでも同じ練習メニューをこなすことを繰り返していた。

本番の市大会ライバル校の一つ中山にベスト4決めであたって敗退したが、県大会出場の権利は確保できた。あとは抽選次第。

県大会の抽選会。4シードが決まっていく。県強化練習会でベスト4になった川崎地区では下剋上が起こり、それまで川崎地区No.2のチームが1位を奪って、4シードに入った。あとは抽選次第になる。末吉も抽選をすることになった。そして、川崎1位のチームの下に潜り込んだ。川崎1位のチームのメインの顧問の松尾先生は別の出張でその場にいなかった。サブの顧問の先生が末吉が下に潜った瞬間、携帯電話で「、金剛地先生が下に入ってきねしまいました」と慌てて電話していた。私としても4シードで崩せるのはそこしかないと考えていた。

開会式直後の一回戦はいつものオーダーです戦った。翌日、朝から団体戦の2回戦が始まる。そこで初めてダブルスの入れ替えをした。相手の第一ダブルスに1年生ダブルスをシングルス勝負で第二ダブルスに3年生ダブルスを当てる。当然、あいてもそのオーダーは頭に入っていたが、そこまで末吉は1️⃣度も動かさなかった。だから相手は勝手に疑心暗鬼に陥っていた。相手のサブ顧問がオーダー交換の時に頭を抱えていた。そこから、3回戦、4回戦もオーダーは入れ替えたまますべてはシングルス勝負に賭けていた。準決勝。東鴨居。横浜1位として全員がジュニア出身でオーダーだけ見ればかてるわけがない。ただ一つ弱点があった。顧問の本橋先生である。まず、そこまで末吉が駆け上がってくることをよそくしていなかったこと。そして末吉の顧問が金剛地であること。私は特に何もしない、淡々とそこまでの試合と同じオーダーをぶつけた。シングルス勝負になるのは覚悟していた。しかし、私が顧問になってから東鴨居のシングルスと末吉のシングルスは当たっていない。一発勝負である。そこまで溜めてきたものを一気に吐き出させた。ジュニアの生徒は割と見極めが早い。ここ一番だけに集中させてきた。一発勝負の賭けに勝った。3年生ダブルスも勢いで勝つことができた。正直、末吉は背水の陣だったシングルスの体力的に次の試合で勝負を賭ける余裕はなかった。東鴨居はその辺、余裕があった。結局、3位決定戦で勝って関東大会を決めた。その辺の腹の据え方が違っていたと思う。決勝はボロボロだった。

ただ関東大会前の合宿で優勝チームが再戦を申し込んで来た。そこで末吉の出したオーダーは優勝校が見たこともないオーダーだった。激戦の末、末吉が勝ってしまった。動揺してしまったのは県大会優勝校である。泣きながら本部席の私のところへ来た。

「私は1年間かけて君たちのことを研究していたんだよ、これが関東大会だよ」と話した。

純子と由佳の年、トップの二人が組むことは第二ダブルスに由美と加世子がいてできたことである。関東大会で神奈川県勢はどうしても第二ダブルス勝負しかないことを私はよく知っていた。だから何が何でも第一ダブルスが勝たなければ勝負にならない。それは善行の先生からも言われていた。実際に善行の団体が関東大会優勝した時もそういう闘い方で決勝の茨城の国府中は一年エースの大橋をダブルスに回してきた。激戦になったが、善行が勝った。

そういう意味で第一ダブルスを育てる。それを顧問が貫かなければチームは育たない。純子・.由佳の二つ前の好美・実紀の代も他のチームはそこだけしか見ていなかった。ただ南が丘だけは明子を警戒していた。実際、冬の新人戦には明子がまにあった。そして4月、5月の県の強化練習会は華代とグッサンには試練の戦いだった一点の差で2シードから4シードまで明暗を分ける試合を経験した。

6月の神奈川オープンです群馬の邑楽中に好美・実紀が激戦の末、負けてしまった。そこから明子が盛り返し、華代とグッサンが逆転勝ちするまでチームが育っていた。

だから市大会決勝。南が丘はダブルスをいれかえてきたが、好美と実紀はほぼ「瞬殺」してしまった。同時進行で始まったシングルスも1ゲーム目を取られても、だんだん明子の足が相手に優ってきた。第二ゲームを取ったあとはどんどん攻めていって明子のスマッシュで優勝が決まったが、実はもう一つのコートで南が丘の第一ダブルスと華代とグッサンがフルセットの激戦になっていた。一年前にはまったく足元にも及ばなかったはずなのに、もしかすると優勝を決めたのは華代とグッサンかも知れない状況だった。信じて使っていけば力が発揮できるものだと私が学んだ。

ただそれを感じていたのは私だけではなかった。県大会で3位決定戦で当たる可能性のあった大清水中が対浜中戦のためのオーダーを練習していた。冬の時点では大清水の第一ダブルスは好美・実紀といい勝負だったのが次第に力の差がついてきた。強化練習会で第二ダブルス勝負になったが、ここでも華代とグッサンが着実に伸びていることに気がついていた。そこで夏本番の3位決定戦で大清水はオーダーを第一ダブルスと第二ダブルスを二つに割ってどちらに第二ダブルス勝負ができるようにしてきた。しかし、一発勝負はここが怖いところで、計算通りいけば第二ダブルスで楽勝だったはずが、思わぬ激戦になってしまった。最終的に大清水が勝ったが、華代とグッサンのダブルスは本当に1年間で進歩したと思う。

純子・.由佳の代に中川西に金子という手足の長く高い打点を持ったシングルスを擁していた。ところが、横浜市の強化練習会で中川西はいつも第二ダブルスを前に出してシングルス勝負なかったあと第一ダブルスで勝つパターンで戦っていた。正直言って来年の夏にはもうこのチームは怖く無くなってしまう。自分たちの一番いいダブルスをきちんと育てないで目先の勝ちばかり拾おうとしていれば、どこかで通用しなくなるものです。実際、後から追いかけてきた栗田谷などに抜かれていきました。

由美が体調を崩した後の私の手当が不十分だったと思います。加世子を活かすことに十分に目があってなかったことは反省点です。本当にもったいことをしました。確かに背は小さいけれどバドミントンセンスが抜群だっただけに何か上手いやり方があったと思います。

私の頭の中は純子・由佳が大清水の辻野・.大西とどう勝負するかに集中しすぎていて、同じくベスト4争いに絡んでくる旭陵に対するマークがあまかったし、大清水の第二ダブルスへのマークも甘かったです。本当に申し訳ないことをしてしまったと思います。また、二年生にもっと危機感を持たせられなかったことが悔やまれます。

日吉台の2年目のチームはシングルス勝負にはならないチームでどうしても第二ダブルス勝負のチームでした。ただ夏の市大会で六角橋と県大会出場をかけた試合で顧問の平木先生は第二顧問の並木先生にオーダーを任せていました。そこで並木先生は横浜No.1のシングルスを擁しているのでダブルスの入れ替えをしてきました。所謂、安全策をとったのですが、逆に第一ダブルス同士の勝負を避けたことが選手のモチベーションに少なからず影響を与えてしまったと思います。第二ダブルス勝負になりました。フルセットになってから日吉台が打ちまくりました。大会No.1シングルスを擁していながら団体戦で県大会出場を逃してしまったのです。本来、自分のチームをもっと信じていれば、こんなことはなかったかも知れないと思います。

私が退職後、本橋先生から連絡が入りました。横浜市大会で優勝しました」そこまではいいのですが「相手によってさまざまなオーダーで戦いました」という言葉が続いたらところで私はおまえは何も学んでいない、県大会止まりだと、想像がついてしまいました。関東大会へ出場して勝つことを考えたらそんな生徒の使い方はしません。

確かに純子と由佳のような抜群の素材に出会うことは私の顧問人生でこの二人だけです。しかし、好美達のチームのように時間をかけて成長してくれるチームもあるのです。ただこのチームはチーム全体の基礎がしっかりしていたことと、千恵という最高のサポートメンバーがいたということです。千恵はレギュラーをはれる力がありました。冬の区大会で明子が準決勝で負けた時、千恵が優勝したことで救われました。第二ダブルスを華代のパートナーにグッサンを選んだとき、一つも腐らず、明子のサポートに徹してくれました。グッサンの高さが私には必要だったのです。リオオリンピックの決勝でのデンマークのベアのように多少上手でなくとも、高さがあれば一発があります。

そして千恵に感謝しているのはパソコンの操作で本部席から離れられない私に逐次、試合経過を連絡し続けてくれたことです。私から頼んだわけでなく、千恵が気がついてうごいてくれていたことです。そういうチームは強かったと思います。単にバドミントンが上手かどうかだけでなく、お互いに補い合う関係ができていたチームは強かったです。