自分のせい、じゃん

私は中体連の書記をやっている時、違和感を感じていた。なぜ理解してもらえないのだろう。私の態度が尊大だったのか?何度も言われた。金剛地さんはいるだけで存在感があるから…。

確かに、末吉の準優勝。どう考えても勝てない戦力。普通に試合をしてくれば、たぶん勝ち目はない。しかし、対戦相手の川崎の第一シード校の副顧問は抽選会の時点で末吉がシード下にはいって、焦って、顧問の先生へ「すみません、金剛地先生が下に入ってしまいました…」と電話をした時からすでに勝負は決まったのだろう。そこから末吉はそのままのオーダーで勝ち上がる。準決勝で横浜の優勝校と対決した。末吉はそこも突破して、決勝に進んだが、激戦を戦い続けてきたシングルスの体力は限界まで来ていた。結果は準優勝だった。

この日のオーダーはこのチームを預かることが決まったその日から決めていた.だから絶対に見せなかった。相手の、顧問の動揺を誘うことが私の作戦だった。選手は一つも悪くない。

そして、関東大会合宿で決勝カードの再戦をするにあたって、もう一つのスペシャルオーダーを披露した。負けてしまった優勝校の動揺は大きく、本部に座っている私のところで泣き崩れてしまった。

20年近く関東大会を、この目で見ている私には相手のどこをつけばいいかはわかっていた。

横浜市大会で横浜No.1のシングルスを要するチームにフルセットで振り切っている。これは相手の顧問が大事をとって、オーダーを入れ替えてしまったことが選手の動揺につながったと思います。

ただ、他地区から大会出場選手名簿をおくってもらうのに、まだメールを駆使する先生もすくなく、faxで送ると、私のパソコンのパソコンの、画面に表示され、それをプリントアウトして、横浜市大会の運営をしながら、県大会の出場選手名簿をつくっていた。連絡が遅いと、催促の電話をしていた。

そういう行為が他地区の担当の先生方からは嫌がられたのだろう。一線を退いた年に県大会の会場に姿を見せた私のところへ誰も来なかった。人望がない。あれだけ20年間打ち込んできて、中川中の小林先生は今、アメリカにいるが、連絡はある。むしろウェンプレーの宍戸などとは連絡が取れている。

確かに私には上手にノックは出さないだろうし、目先のことを考えれば必要なかったのだろうか。

合宿の裏方とかずっとやっていても、実際に成果を出した先生だけの名前が残ってしまうのだろう。ただ小林先生はアメリカに行く前に、もう金剛地先生みたいな先生はいなくなってしまいました。と言い残したました。私が最後に見た県大会で監督席で顧問が文庫本を読んで、横向いていたのを、おぼえてます。

日吉台の一年目はウェルカムの雰囲気でしたが、二年目からきたある先生が私について、どういう噂を聞いてきたのかわかりませんが、生理的に受け付けない態度でした。そこに私の学年主任としての金銭管理が中体連などとごちゃごちゃになって混乱して、迷惑をかけました。三年目からは校長からあからさまに嫌われました。難題を次々と押し付けられ、責任を負わされました。最後には臨時任用か非常勤で調節できたところをわざわざ正規職員を連れてきて、次の年は出て行くんだぞ。とされました。

確かに日吉台の体育館は4月には私の手で、年間計画がきめられて、他の部活は入る余地はありませんでした。校長はバスケ出身でそれなりの顧問を連れてきたようですが、思ったようにならなかったようです。私の抜けたバドミントン部は初心者の女性二人で男子は特に三年になれば県大会で活躍できるだけの陣容でしたし、一方、各担任からお願いされていた生徒たちの面倒をどこまで見てくれるか未知数でした。私自身は転勤の準備に追われ、修了式の日の朝、生徒の机にカーネーションを一輪ずつ置いて行きました。

末吉の生徒指導は困難で学年主任の先生の動きも早く、追いついていけない。感覚的に、校長面接で言われた県大会優勝。ほとんど全力では準優勝に校長は満足して、大会会場まで足を運んでいただいた。その後、まだ学年は続くわけですが、すでに私は全力を尽くして放心状態でした。いわゆるバーンアウト状態でした。

例えば合唱コンクール。浜中であれだか力を入れてきた行事でしたが、末吉のクラスではいつどのような形で決まったのかも知らずにいて、学年主任からテコ入れされて、やっと気がつくのです。本当に学級担任失格です。どんどん落ち込んで行きました。判断ミスが次々と重なり、生徒から信用を失ってしまいました。わずか一年で出されてしまいました。私の責任です。相談相手はなる方がいなかった。自分より年配の先生とずっと若い先生の間で繋ぎの役割だったはず。何をしたらいいかわからないまま一年過ぎて、出されてしまいました。他に理由がないでしょう。なにこの人部活のことしか考えてないと烙印が押されてしまったのでしょう。

あの時、教員を辞めて、大学へ社会人入学して、心理学をまなびなおして、カウンセラーへの道に進んでいればそこから始まる生活はなかったかもしれません。