発掘体験

大学2年の夏休み。近世史研究会の仲間に誘われて、三島の山中城の発掘調査に参加した。山中城豊臣秀吉の関東侵攻に備えて改修された戦国期最後の土の城である。豊臣軍の襲来に備えて後北条氏流の様々な工夫がなされていた。

私たちが最初に担当したのは堀である。障子堀と言って細かく区切られた堀である。ちょうど正面な富士山の宝永火口が見える。江戸時代の宝永年間(新井白石の政治が行われていたこ頃)の富士山の爆発した火口が目の前に大きな口を開けている。江戸の町まで火山灰が降り注ぎ、江戸の人々は傘をさして歩いたりほどだったと記録にある。目の前の火口からこの山中城には大量の火山灰が降り注ぎ、城は埋まり、新田が作られていました。そこから後北条氏時代の山中城を掘り出す作業だが、関東ローム層の上に降り積もった富士山の火山灰を取り除けば城跡が出てくる。とても発掘調査としてはわかりやすい現場である。

とにかく大量に積もった火山灰を除く作業である。腹の深さは9m以上。「人間ベルコン」と呼ぶような単純作業が続いて、次第に堀が顔を出してくる。真っ赤な赤土が目の前に顔を出してくる。

  • だんだんとそこが見えてくると、堀の中には様々な物が散乱している。その一つ一つを高校生たちが測量していく。おそらく落城の際投げ入れられたものであろう。銃弾は直径2センチ程度の丸い物で、うっかりすると、コロコロころがってしまう。茶碗も出てきた。現代のものと変わらない茶碗である。無造作に歩いていて、大切な金箔を踏みつけてしまうことがある。堀の底まで掘り進むとそこは虫の声が聞こえるだけの静かな世界である。関東ローム層の壁はツルツルしていて、なるほどここにおちたら落ちたら狙い撃ちにあってしまう。実際に豊臣方の一柳直盛が戦死している。
  • 城攻めの主力は徳川軍である。あらかじめハシゴを用意してきた徳川軍は堀にハシゴをかけてそこを伝って次々と城内に侵入し、堅固な城もわずか一日で落城してしまった。という。

 

発掘隊は伊豆長岡市の旅館に宿泊していた。バスに乗って旅館まで辿り着くと、大浴場にむかう。これがガラス一枚隔てて女子風呂がある。「、おーい、石鹸がないぞ」と言うと、ガラス戸の上空を石鹸が飛んでくる。男女の垣根を乗り越えて過ごした一カ月である。

 

最後に担当したのは本丸の土橋である。その中に気の橋をかけるための柱の穴があり、お玉を使って、土をかき出していった。どんどん深くなっていって、橋に這いつくばって、土をかき出していった。

 

ちなみにアルバイト代は一ヶ月15000円をもらって帰ることになった.