高校生活のはじまり

私の高校選びはかなりいいかげんなものでした。父がガス会社で働いていたので工業科に行くのかな…なんて考えていたら担任は川の向こうの学校へ行け!それも滑り止めなし。わたしも、たあ、そんなものかな、それが神奈川県立柏楊高校です。

学校生活がはじまると、昼の放送でロックンロールがバリバリ流れます。先輩のの中にキャロルの内海さんがいたそうです。文化祭はコンサート一色でした。私もバンドを組んでチューリップの、「心の旅」と堺正章の「街の灯」を歌いました。しかし.一番印象に残ったのはシンセサイザーで「展覧会の絵」の演奏をされた先輩はすごかったです。

部活は前の年にミュンヘンオリンピックで男子バレー練習ボールが優勝した影響でバレー部にしました。しかし、160センチ足らずてかなり無謀な話でした。

バレー部の屋外コートの下はかつて、PXを解体した後で瓦礫があちこちから顔を出していて、そこでフライングレシーブ練習をさせられました。すると、たいそうぎがきれて、胸が傷だらけになるので雑巾縫いつけて練習しているうちに、一人いなくなり、二人いなくなりで、特に合宿のキャンプへ出掛けて、そのままいなくなる人がいた。そんなことで私も背番号16をもらった。つまり、ベンチにも入らない私の仕事はレギュラーの選手に、ただひたすらサーブを打ち続けた。サーブの種類を変え、コースを変え、回転を変え、高さを変え、どんなサーブでも打てるようになることが日課だった。

それが役に立ったのは球技大会。160センチ足らずで運動神経が鈍い。ということでバレー部なのにコンチはバレーでもいいよ。とお情けをかけてもらった。私のクラスは好調で決勝までいってしたった。決勝の相手は3年生。さすがに強い。もうおわるかな?というところで、あれ、コンチ出てないじゃん。ということで、ピンチサーバーて出ることになった。屋外コート。風はちょうどいい。私はドライブサーブを選択した。3年生は舐めてかかっている。そこへ次々とドライブサーブをうちこんた。気がつけば13連続サービスエース。逆転優勝してしまった。

終わった後、バレー部の先輩から「お前、何マジで打ってんだよ」とたしらめられた。