ピンポン

私が教師として採用されて学校は鶴見区の寺尾中です。一学年13クラスの大規模校。全国集会もグランドいっぱいになってしまいました。新しい棟だけでは全校生徒を収容しきれず校舎の裏側にプレハブ校舎が立ち並び、これがめちゃくちゃ暑かった一緒の学年の体育な先生のクラスでレースのカーテンをつけたら保健室の先生から防災カーテンをつけてください。と言われ、泣く泣くレースのかーてんを外しました.「風が吹いてさら〜とするのが、良かったのだよな」と残念がっていました。鶴見区の教職員はスポーツが盛んで寺尾中はちょうど10連覇がかかっていて、生徒の帰った後、バレー部の先生が鬼コーチとなって、厳しく練習しました。私もライトアタッカーの練習をしました。ベテランの先生対初任者チームです試合をしました。私はレフトアタッカーで必死に打ち込むのですがことごとく拾われてしまいます。結局、ベテランチームに勝てませんでした。これがレギュラーチームになると、若い体育のセンターがサイドから次々うちまくります。バレー部の先生は空中で相手を見て、コースへ打ちます。

そんなわけで、大会で決勝まで行ったところで時間切れ、決勝の寺尾中対上の宮中の試合は寺尾中の体育館でしたが、試合中に「出動」がかり、ドローになりました。

また、夏は若手みんなで車で室生寺に向かいました。室生寺の橋のたもとの、橋下屋旅館の夕食はびっくりする量でした.翌朝、室生寺に参拝し長い階段の上に五重塔があるのですが、若い体育の先生二人はムキになって片足ケンケンです上がっていってしまいました。次の目的地は広野さんです。そこまでの曲がりくねった道の↔️、枝雀師匠の落語を聞いて爆笑しながら運転しているのですよ。そして、高野山の宿坊に泊まりました。遠くの部屋で若い女性がはしゃぐ声が聞こえてきます。先輩の先生が「麻雀ありますか?」と聞くと、出てきました。次の日は二上山に向かうというとこで、タモッチャンが、伊勢湾の神島と二上山の関係について聞きに来るので説明していました。

冬はまた、車を連ねて白馬村に向かいます。翌朝、八方尾根に向かいリフトにのっていきます。晴天の空に突き刺すような真っ白い北アルプスの山々、私はウキウキしてました。その後に地獄が待ってるとも知らずに…。ついたところは頂上で雪がこぶこぶになってます。スキー初心者の私にスキー靴の履き方を教えると、一斉に降りていってしまいました。それから麓まで半日半べそで降りました。絶対、来年は来ないと、誓いました。ただ^野沢菜を最高に美味しかったです。帰りに穂高駅のそばの山菜蕎麦の店に寄りました。ここの大将は「お残しは許しません」と看板掲げているのです。山となった山菜蕎麦の攻略はかなりヤバかったです。

超ベテランの非常勤講師の先生が本牧のクラブサイドへ連れていってくれました。年配の女性の先生方はドレスアップして、しゃこうだんすをしました。

学校に帰っても何故かミラーボールがあり、社交ダンス教室が開かれました.

また、釣り好きの先生に連れられ鯵を釣って船上で叩いたのを食べました.さらに菱という道具を使った繊細な釣りもしました.

完全に青春してました。

翌年から、バレーボールに変わって卓球大会に変わりました。みんな運動神経が良く、ラリーがつづします。ただ一人私だけが玉はあたらない、もし当たってもどこかに飛んでいってしまう。あまりの鈍さに周りは困ってしまいました。そんな私にタモッツチャンさが「ピンポン」と命名しました.私はこのあだ名が大嫌いでした..ところが先輩だけでなく同期もこのあだ名で呼びます。とても嫌でしたが、同期で一番鈍臭かった私はそう呼ばれても反発てわきませんでした。私はいじめと感じてました。しかし、誰も気がついてくれませんでした。

それに続いて、同期の一人で将来のエース候補がいました。彼は常に上から目線でした。

ある日、わたしに「ピンポンがしゃべるとしらけるだよ」と言われました。そして、私は周りの誰からもそういわれているように感じ始めました。本当にノイローゼ気味になってヌマさんに相談しました。

最初にそれを言った彼は同期の中で一番早く校長になりました。生活指導の専門家といて、横浜市内で知らないものは無い存在でしたが、私をいじめた記憶は私はわすれません。