いじめられっ子1

幼稚園の送迎バスは私一人が男の子で、あとはおしゃまな女の子たち。「敏雄ちゃん、敏雄ちゃん」と可愛がられていました。幼稚園で同じ歳であっても3月生まれの私はマスコット扱いでした。

すぐそばに住む幼馴染の家からはピアノの、練習の音が聞こえてきます。私もピアノを習ってみたい。、と両親にお願いしたところ、オルガンを買ってきて、ピアノの先生を、見つけてきてくれて、練習が始まりました。

小学校に入学しても一向に身体は大きくならず、たまたま帰る方向が一緒のともだちができました。また、自動車修理屋さんの息子さんとも友達になりました。

ただ私の家は貧乏で一緒におでん屋という駄菓子屋へ行って、おでん一つ5円でした。私の1ヶ月の小遣いは10円。我慢しなければいけません。そして、おでんの中でひときわみんなの目を引いていたのが「花こんにゃく」でした。実はこんにゃくを花形に切ってあるだけのものでしたが、みんなの憧れでした。

小学校3年の図工の時間に描いた「運動会」の絵が区役所の方の目に留まり、区役所に展示されることになり、私はやっと自信の持てる分野ができました。

とにかく家が貧乏で唐揚げを小学校3年の給食が初めてでした。小学校では栄養補給のための肝油のドロップが売られていました。

小学校4年で横浜に引っ越しました。その小学校にも絵が上手い.と噂の同級生がいましたが、私から見るとただの平板な絵でした。私の絵について担任も少しも理解できませんでした。たまたま、同じ年に引っ越してきた友達ができました.

近所の同じがくねんの友達に近くに親戚のお兄さんたちのいる子がいました。缶蹴りとかいろいろ誘ってくるのですが、私が鬼になると一斉に飛び出して、缶を蹴って、何度も鬼が続きました。

そして、4年の放課後、雲底で時間を潰していた私に強い痛みが襲いました。雲底の繋ぎ手の部分に薬指を挟みました。保健室の先生が駆けつけて、応急処置をしましたが、担任はまったく知らないでいました。家でお風呂に入っている時に父が異変に気がついて、すぐに整形外科へタクシーでいきました。すぐ手術になりました。麻酔から覚めると薬指にたくさんの針が刺さっていたのを覚えています。これはピアノを弾く上で大きな致命傷になり、薬指の肉は二度と戻ってきませんでした。

妹は運動神経抜群で公園の鉄棒ですぐに逆上がりができるようになっていまいました。

私は来る日も来る日も公園の鉄棒で逆上がりの練習を繰り返して、とうとう逆上がりができるようになり、さらに前回り、後ろ回り、蹴上がりを、次々マスターしました。

そんな私を体育科の先生が体操部に誘ってくましたが、跳び箱への恐怖感から断ってしまいました。

そんなある日、いつものように放課後、鉄棒であそんでいて、前回りをした時、強い痛みを感じました。ペニスが血だらけなつてきました。家に帰っても両親に黙っていました。そこに体育科の先生から家へ電話があり、すぐに病院へいかせてください。と連絡がありました。私はすぐ手術をうけました。

その後鉄棒をする時にはサポーターを履くようになりました。

しかし、その噂は学年中に広まってました。「お前のチンコ、ちぎれたんだって」と囃し立てられました。それは卒業後も続きました。

私と同じクラスにとても体格のいい転校生がはいってきました。それまでアメリカ人とハーフの子がすぐにくっついて悪さをするようになり、そのころ、いろいろな生徒からいじめを受けていた私にも標的が向かいました。

2年生の時、教室で二人に囲まれてしまった。私は椅子を投げ、つくえをなげてていこうした。その後は二人からはいじめられることはなかった。

しかし、私にちょっかいを出す生徒は何人かいたが、女子生徒がやめなさいよ。とたしなめてくれた。

 

教員になってからのいじめはショックだった。区の教職員の球技大会で卓球に、出ることになってしまい、ダブルスで出場したが、パートナーに迷惑をかけるばかりだった。保ちゃんから「ピンポン」とあだ名をつけられて、きずついた。

しかし、それよりも深刻だったのは同期なり中で一番優秀な仲間から「ピンポンが喋ると白けるんだよ」という言葉を何度も何度も繰り返された。その頃、TV番組で小松政夫さんが「しらけどり飛んだいく、東の空へ、惨め、惨め」と自ら蔑む踊りをしていた。私は自分の言葉のどこが白けるのかわらなかった。私はヌマさんに相談した。ヌマさんは真剣にきいてくれた。ちなみにわたしに「白ける」と言い続けた仲間は同期の中で一番早く校長になっている。