コンプレックス

今までの人生は常にコンプレックスとの戦いでした。

鉄棒での大怪我。卒業後、何年も経ってから同窓会の帰りに一部の人が「お前、チンコ大丈夫か」とからかってきました。それ以上に私自身がずーっと気にしていて、他の人と一緒にお風呂に入れませんでした。だから、息子の誕生は本当に嬉しく、当時、かなり高額なPC88というコンピュータを持っていたので、そこに自分の喜びを書き綴りました。ただ現代のコンピュータを比べると信じられないほど容量は小さかったです.娘が誕生した時は、ちょうど朝学活の時間で職員室で連絡を受けて、急いでクラスに戻ると、クラスの生徒たちが仕込んであったクラッカーを一斉に鳴らし、黒板にもお祝いのメッセージが、いっぱい書かれていました。

もう一つは薬指の大怪我です。当時の手術の技術では薬指に中の肉を出して、皮膚を縫い付けました。

しかし、いったん、かき出された肉は元に戻りませんでした。今も傷跡が生々しく残っています。皮膚の下がスカスカのままです。それでなくてもピアノの競争率は高いです。ピアノの先生は私と幼馴染で竹久夢二の「宵待草」を幼馴染が歌い、私が伴奏をするとか、いろいろと、くふうしていただきました。しかし、私はクラッシックはショパンが一曲弾ければければいいと諦めました。大学一年のピアノの発表会で「幻想即興曲」を選んでもらって、クラッシックに別れを告げました.

その分ポピュラーソングの世界ならばなんとかなるんじゃないかと期待して、日大文理学部三島校舎の軽音楽部に入部しました。その前年、ポピュラーソングコンテスト神奈川大会で渡辺真知子に衝撃を受けて、神奈川から出場するのは難しいと、ここもあきらめました。そこに、東海地区で輝いていた八神純子がプロ転向し、日大三島校舎の軽音楽部が本選会で入賞しました。史学科へ行けば勉強と両立できると思っていましたが、自分としては思ったような

演奏も出来ず、行き詰まっていました。そして、ポプソン本選会で入賞している先輩が楽器店の楽器運びをしている現実。そこに日本史の講師の上保先生から原文書を出されて、読めなかった。それまでの歴史の知識が単に小説を読み漁っていた結果であって本物の歴史の勉強はこういうものだとつきつけられました。

教員になってからも、コンチが話をすると白けるんだよ。と面と向かって言われ、全体の場で話をするのは怖くなり、学級通信を書き続けることで少しずつ克服していきました。

背が小さくて運動神経が鈍いのも、コート全体を俯瞰する目を養うことで、違う側面から部活動の指導にいくこお、とにかくわからなければ聞いてしまうこと.で少しずつ成長できたと思います。

そして、体育館をいろいろに使い続けたことが文化祭の開会式の企画と活かせたと思います。

ただ自分をキャパオーバーに追い込んでしまったことが自分の心身を崩壊させてしまったとおもいます。今、訪問マッサージを受けていますが、よくここまで耐えてきましたね。と言われます.すでに15年前の甥っ子の結婚式の記念写真ですでに身体がねじれてました。改めて、昨年いっぱいかけて、やっと清掃会社に採用されて、一日目でクレームが来て、現在の現場へ移ってます。自分では何がどうなってるかわからず、整形外科に行くと、門前払いでした。そこで脳神経内科を受診した際、十分な聞き取りを経て、診察室に入った途端、先生から身体の、バランスが歪んでいること。MRIを撮るとてんかんの発作の跡がみられました。そういう意味で今、必死に仕事してます。