日吉台のTさん

Tさんは一年の時から問題行動を起こしては指導を繰り返していました。正直、具体的に何をやったのを思い出せないくらいいろいろありました。ただニヤニヤしながら、こいつ、心の中で一つも笑ってないな、と私には感じてました。朝、教室で待ち構えていて、机を次々とぶつけてきて、追いかけ回したことは覚えています。二十歳の同窓会の最後の方で私の前に来て覚えてる、というので、忘れているわけないだろ!と言いました。たくさん話はしたかったけど、まだ次から次へと生徒たちが来ていて、いつのまにかいなくなってしまいました。

私のクラスには男子の一番大変な生徒としてK君がいます。K君は同窓会には来ませんでした。しかし、その前に会うことがあり、大工になっていました。修学旅行で駅のホームで同じクラスの生徒に暴力を振るったことをで校長が問題ある生徒をすべて切り離し、私に引率させました。京都内の基本的な見どころを一応押さえましたが、隙を見ては寺院の順路を逆走するなどやりたい放題でした。しかし、大工になってから中学校の時に連れて行かれた金閣へ行ったそうです。金剛地金閣って凄かったんだな。と話してくれました。考えてみれば文化祭の最中、警備の甘い昇降口へ行くと、木刀を持った20人余りの生徒に囲まれました.ニヤニヤしてました。その中心にいたのはK君です。私はK君を目で制しました。約10分間彼らは動きませんでした.そこへ簾田先生が音楽室へ向かうところで気がついて、職員室へ通報し、事なきを、得ました。しかし、彼らはいつでも私をボコボコにできたはずですが、それをしませんでした。

卒業前、2人の女子生徒が妊娠してしまいました。女性の先生方が一生懸命サポートしてくれていました。

その一方で、修学旅行て暴力を振るわれた生徒が不登校になりました、。卒業前の体育館での乱闘の最中アルバムがいくつもなくなり、最後の一冊をもって、家庭訪問をしましたが、本人には会えず、本人の母が横浜市民ネットワークの市会議員でした。私は市議会で追及されました。

ただあのクラスでは3人組が盛り上げてくれました。体育祭の全員のフェイスペインティング。文化祭の「学校へ行こう」。精一杯頑張ってました。

東京の私立に進学した生徒はゴルフ部で活躍し、大学へ進んだのだが、まわりと比べてとても幼いままだった。

 

我が家の夕食後、娘にとって憂鬱な時間が始まった。妻が一々突っかかる言葉を浴びせてくる。娘はそこで私が怒ってしまうのが嫌なのだ。しかし、妻の毒ガスは吐き続けます。娘は要するにお母さんはかまってちゃん。だと感じている、と言っていた。私もそう思う。昼間は娘の部屋で丸くなっていて、娘は自分の精神の安定が図れない、と私に相談してきている。しかし、妻は私に自分はこれからも娘の部屋に潜り込み続ける、と開き直った。とにかく私が困ることを言っては、私の反応を試しているように見える。