新宿西口広場フォークゲリラ

1969年、ベトナム戦争の最中、新宿西口広場に土曜日足を止めて歌を歌い、議論を交わしていた。小学校5年生の私も噂を聞いていた。大阪万博の前のことだった。私は歌が歌いたかった。そのために親を騙して新宿にむかった。小学生の私は議論には加わることはできなかった。しかし、なんとも言いようもない雰囲気に包まれていたこと覚えている。岡林信康の「友よ」は今でも歌える。何故か私のカセットテープの中に「自衛隊に入ろう」が入っていたことに気がついたのは、ずいぶん後のことだった。しかし、大学生やサラリーマン、労働者があつまっていた。小学生の来るところではなかったと思う。今考えればとんでもない不良小学生だった。遅くなって家に帰っても絶対にどこに行っていたかは言えない。学校でも誰にも言わなかった。

私は羽田で生まれ育って、夜中にデモ隊が行進する足音をきいて育っていた父が仕事の関係で横浜市へ引っ越した。まわりの友達にはそういう感覚はなかった。しかし、何故かデモ隊がどうやってゲバ棒、投石の石を用意したのか、知っていた。

フォークゲリラはいきなりなくなった。西口地下広場が「通路」と名前が変えられるフォークゲリラの中心メンバーは「道路交通法違反」で逮捕されたそうだ。その後78年安保にも私は間に合わない年齢だった。後から「谷間の世代」と言われることになった。私には大阪万博など関係なかった。ただギターを持って歌いたかった。桜上水のキャンバスにたくさんの立て看板立っていた.図書館で勉強していると中には学生運動の有志と大学が雇ったガードマンが衝突していた。その学年はロックアクトになりテストは実施されず、レポートの提出になった。

しかし、そんな私は親戚から危険視される学生になっていた。私が千葉で古文書の調査に行く時、三里塚成田闘争へ加わるのではないかと心配されていた。

ユーミンが「いちご白書をもう一度」を歌った時、アメリカ映画の「いちご白書」を見ていた。最後のごぼう抜きの場面はみていて、自分がもう少し早く生まれていたら、と先輩たちが羨ましかった。しかし、一方で中学生の時、浅間山荘事件の中継を用務員室の窓から覗いて見ていた。時代が終わっていた。まだ各地で火種は残っていたが、加わることはなかった。家庭がそれどころでない。なんとか身体障害者の母、まだ高校生の妹の生活を支えるため奨学金をもらい、アルバイトに明け暮れた。今考えると発掘もいいアルバイトだった。そして、教職にすぐ就くのは危険だった。採用がギリギリまでわからない。自動車販売会社の営業を始めた。鎌倉の由比ヶ浜にある営業所で第一歩を記し、逗子の担当になり、ゼンリンの住宅地図を持って、各家庭の自動車をチェックして回った。この習慣は担任として家庭訪問する時に役にたった。1年後、母方の叔父が新しい会社を立ち上げたのだが、就業規則や給与規則を作ってほしいと連絡があり、自動車販売会社を退職して、母方の実家の鹿沼に向かった。就業規則、給与規則を作り、自動車販売会社時代に身につけていた損害保険代理店の資格も活かす事ができた。大好きなキャンディーズのお別れコンサートの中継を見ている最中。鹿沼の叔父の家へ鶴見の寺尾中の校長からの連絡が入りました。君は音楽を教えられるかな?と言われて、幼稚園からピアノの練習をしていました。と、答えて採用が決まりました。出かける時、叔父が渡してくれたゴルフ手帳も校長は気に入ってくれたようでした。その後組合活動でも教文委員として活躍しました。先輩の先生方がちょうどフォークゲリラなどの活動していて、いろいろと当時の話をしてもらいました。