「瞳を閉じて」

夕食の時、辛いものの話になり、息子もたくさんネタを持っていて次々と披露してくれた。私も大学時代「ボルツ」というカレー店があり、1倍から30倍までの辛さのカレーがあり、30倍カレーを一定時間内に完食できればタダになるし、店に名前が貼られる話を披露して喜んでいた。

娘が、お父さん日本で海岸線が一番長い県はどこ?

と聞くので、長崎県と即答すると悔しい顔をしていた。なぜ海岸線が長いのかわかるか?というところから、五島列島の話になった。

私が中学生時代、下の部屋で親は子供が寝静まるのを待って、「11PM」というお色気番組を密かに見ていた。その時間、私は眠ってなんかいない。ラジオの番組を次から次へと書いていた。そして私の王道は「あおい君と佐藤くん」「かぜ耕司のタムタムタイム」そして「コッキーポップ」と続けて聴いていた。コッキーポップではシンガーソングライターを目指す若者たちの曲が次々と流れて、クラッシックから脱皮したいわたしにとってとでも刺激的な番組だった。家族が寝静まった中、カセットデッキをだして、ラジオの音楽を録音しては、翌日、友達と「昨日の曲聴いた?」とやってはカセットテープを見せて自慢して、家に帰るとその時、書いた曲をコピーしていた。女子は大変だったようだゴールデンタイムの「ザ・ベストテン」をテレビの前にマイクを置いて録音するのだが、家族が呑気に入ってくるとすべてはおじゃん。あまちゃんで春子(有村架純)がそんな様子が流れていた。

はっきりいって、深夜放送を聴くために勉強しているフリをしていた。私はコッキーの後、TBSへ移動してパックインミュージックをきいていた。特にナッチャコパックが楽しみですべて下ネタ。DJは

野沢那智さん(アランドロン役はこの人).相方が白石冬美(巨人の星星明子役)。翌日の男子は下ネタの嵐だった。

その頃ニッボン放送はオールナイトニッポン。そちらもたくさんのファンがラジオに耳を近づけて聴いていた。パーソナリティの一人に荒井由美がいた。(現在の松任谷由実 ユーミン), そこへ五島列島の一つ奈留島の女子高校生から一通の手紙が届いた。

「私たちの学校は分校です。私たちはこれから集団就職で島を出てしまいます。私たちの学校の校歌を書いてもらえませんか?」という手紙と島の写真が送られてきた。ユーミンは面白い手紙だな。と思い、とでも素敵な曲を書きました。ところが学校の先生方が職員会議を開いて、この曲を校歌とすべきか議論になりましたが、結局、校歌にはならず愛唱歌として認めらました。しかし、奈留島の生徒たちはこの歌を胸に島を去っていきました。このことが話題になり、ユーミンのアルバムにもこの曲が入りました。「瞳を閉じて」と名付けられたこの曲は全国のラジオのリスナーやユーミンのアルバムを買った若者たちがこぞって歌いました。その様子をNHK教育で一つの番組として、取り上げました。

 

何代もこの曲が歌い継がれ、歌詞の碑を作ることになり、ユーミン奈留島に駆けつけました。手紙を送った生徒も、都会で結婚してました。除幕式が行われて初めて二人は顔を合わせました。

 

深夜放送は私たちの解放区でした。教室の話題は昨日、こんな話があったね。そういう話ばかりしていて、授業は眠くなります。その度に怒られてました。

 

私の将来の目標の欄にシンガーソングライターと書きました。その夢に向けて日大文理学部軽音楽部へ進み、練習に明け暮れました.

 

晴れの舞台静岡県掛川市つま恋のステージはガラス張りでまわりの自然に囲まれて気持ちよく演奏できる場所でした。神奈川予選で渡辺真知子に圧倒され、関東甲信越大会、つま恋本選会にいきました。ちょうど、その大会の時、グランプリを取ったのは中島みゆきでした。本当に世界が違う!と感じました。本当に自分は勝負できるのだろうか。その時、日大文理学部三島校舎軽音楽部のは一つのグループが、東海地区大会をかちぬき、本選会に進み入賞してました。そのいきおいもあって、軽音学部は何度も合宿して夢に向かおうとしていました。

しかし、私は講師の先生にくびねっこをつかまれて、研究者への道を歩もう、足した途端、父が亡くなり、社会科教師になるしか選択肢はありませんでした。

また、演奏家として、私の小学生時代の指の怪我はきっと限界にぶつかってしまったと思います。

 

日吉台で文化祭のオープニングで吹奏楽部をバック「大きな玉ねぎの下で」を歌ったり、南が丘で職員バンドでキーボードで演奏したり、学生時代のやってきたことが活かせたことはとでも

私も「瞳を閉じて」のような曲を作曲してみたいな。現在、卒業式で歌われている「旅立ちの日に」も秩父の校長先生の詩に音楽科の先生が作曲したものでとでも親しみのある曲です。

いつかそんな曲を作ることもできるのでしようか。