金剛地敏雄は負けない

私は2012年3月病気退職しました。私の病気は身体と心の両方の病を患っていました.最後の1年は田奈中でした。昼食の時間、担任の先生方が電子レンジで温めて教室へ急ぎます。私は最後に電子レンジを使います。前任校で集中治療室に入って以降、私の食事は低タンパクの冷凍弁当で解凍するのに10分かかります。味もなくとでも不味い弁当を食べた後、指の先を小さな歯で出てきた血液で血糖値を測り、腹にインシュリンを打ちます。そういう毎日が続きました。腎臓の数値、特にクレアチニンも着実に上がっていきます。血液検査を手早く済ませて、診察を受けて、食事指導を受けるためには朝一番に並んで再診発券機でできるだけ早いナンバーを手に入れて血液検査しないと血液検査の結果を見て、診察が始まるのだから、とにかく急がなければいけない。しかし、それ以上に重かったのは精神障害だった。私の双極性障害といい、とっても厄介な障害でした。発症したのがはっきりしたのはもう日吉台中の3年目からでした。これも朝一番の診察だったので学年をまとめなければいけないはずなのに朝学活を副担任の先生に任せなければいけないことは先生方からは信頼してもらえなかったと思います。しかし、学年の生徒も落ち着かない状況に悩みました。また、中体連の役員の仕事も山となっていました。いつまでたっても家へ帰れない生活が続きました。末吉中で県大会準優勝した時にはストレスはピークに達してましたが、転任したばかりで誰も相談相手もなく、学級経営も判断を誤ることでわずか1年で転勤を言い渡されました。そこからも何度も判断を誤る場面が次々と起こりました。

そして、あざみ野へ転勤した時、教師として、致命的な状況が起こりました。試験後の答案用紙を見ても採点できないのです。たぶんこの病気になった人しかわからないと思いますが、頭の中がごちゃごちゃになって⭕️❌の判断がつかないのです。ある日、部活の練習を午前中で終わると、ラーメンの横濱家と長崎ちゃんぽんをはしごします。それまでもそういう馬鹿喰いを繰り返していて、この夜、深夜、トイレで嘔吐と下痢です意識を失っているところを息子が気がつき、救急車で運ばれた時には血糖値が700あって、すぐ集中治療室へ運ばれ、一週間全身に管が付けられていて、その後、一ヶ月で退院しましたが、すぐに転勤させられました。こんな経過て教職は諦めなければいけないと判断しました。それから1年間家に引き篭もりました。しかし、義母の介護に週一回通ってくる義妹からなじられ、私のメンタルの診察の時、診察室まで乗り込んでくるほどでした。こんなにやりたい放題されるならとリハビリ施設を探しました。近くのデイケアに通所することになったのですが、自分の病気を納得できない。しかし、毎日の昼食の食器洗いで合格が出るまで半年かかりました。たまたまメンバーやスタッフに恵まれて精神障害のリハビリも進み、糖尿病もなんとか持ち堪えらるようになりました。しかし、腎不全は腎不全はまるで時限爆弾のように着実に進みました。

それでも放送大学に挑戦して認定心理士に申請書を提出すればいいだけ、学芸員資格も実習を残すのみでした。しかし、退職金は生命保険会社と銀行系の証券会社が運用に失敗してしまいます。あとは障害年金頼りの生活になっているところへ、2022年1月妻も預貯金をすべて引き出されます。その時になって、やっと教え子のアドバイスを聞きながら、子どもたちの障害年金の申請を行い、支給が始まってから、家族一人一人から生活費を徴収して、口座振替していくようにしました。そして、少しでも生活費の足しになるように就職活動を行いましたが、年齢の問題や集中力の問題などさまざまなハードルがありました。やっと新しい仕事についたのは11月末でした。そのまま普通の生活にはなれませんでした。私のメンタルが壊れました。浪費が止まらなくなりました。もうクレジットカードも何回も止まりました。何もかも、こんなに中途半端な状態で私は一生を終わるのでしょうか。

身体がものすごく痛みます。身体の筋肉のバランスが崩れ、筋肉がよじれてしまっています。現在、訪問マッサージと鍼灸で治療をしています。

介護保険を申請したところ要支援となり、デイサービスが受けられるようになりました。

本当に思い残すことばかりの一生を送りたくない。なんとかならないか模索しています。

日本一の社会科教師になりたかった。考え抜いた授業を行えように工夫を続けましたが、採点ができない教師にもう資格はないでしよう。

バドミントン顧問として最高の素材に出会っていたのに勝たせられなかった.負けたその瞬間に立ち会うことさえできなかった。ただひたすら大切な時間を一緒に過ごしてくれたことへ顧問として答えさせてあげられなかったことはきっとこれからも、寝て起きても悔しさで起きることになるでしょう。生徒はお礼が言いたいと言ってくれますが、負けた事実は変えられません。

ただ一人一人が立派になっていってくれたことに感謝します。

ただその後、バドミントンのルールが変わり19-19以降、2点差をつけなければ勝てない試合で、どう見ても小さな体で優れた運動神経もない生徒でも29-29まで粘り、最後の一点を勝ち取れる生徒や、私がいなくてもワンラリーごとにフラッシュトークを交わしながら自分たちで試合のできる生徒が育っていたことは小さなごとに見えるかもしれませんが、顧問として少し自分を許してあげてもいいのかなと思います。

 

NHKアカデミアという番組でテニスプレーヤーの伊達公子さんが出ていました。世界ランキングで4位と絶頂期に26歳で引退してしまいました。実はテニスが好きですか?と聞かれて、好きです、と即答できなかったことが一つのきっかけだったそうです。

その後、さまざまなことを乗り越えた後、ライバルのグラフやナブラチロワからエキジビジョンをやらないか、と声をかけられて悩んだそうです。しかし、昔のテニスが好きでしょうがなかった頃の気持ちが戻ってきたそうです。その時にはすでに37歳になっていました。それでも再チャレンジが始まりました.さすがに年齢とともに身体のケアや不安があったそうです。しかし、当時チャンピオンのビーナスを相手にした試合の最初のラリーでかつてのライジングショットが決まりました。ビーナスはあっけにとられてました。3時間の苦闘の末、試合には負けしまいました。伊達さんはその後、さらに9年も現役を続け、納得して引退できたそうです。

 

ちっぽけな私も今、自分を納得させる取り組みに向けて動き出しました。いろんなことが中途半端に終わってきた一生です。何か一つだけ残しておきたいな、と思っています。このブログもそんな思いで綴っていますが、これはまだ一つの入り口です。

まだ負けたくないです。一つだけでいいからきちんと残せるものを作りたいです。

ただそれには手続きと時間。何よりも私自身の根気が必要で、それまでに人工透析が始まってしまうだろう、と思います。また、家庭事情も苦しいと思います。

 

実はここのところ年金事務所とやりあってました。65歳になって障害年金から老齢年金に切り替えることになったのに事務所側の手続きの遅れで支給が遅れています。猛烈にそしてさまざまなルートも使って抗議しました。やっと年金事務所は非を認めて動き出しました。少しずつ準備は整ってきています。

 

本当に体重30㌔も痩せるような思いで必死の生活の立て直しが続きました。私の心も荒みました。

 

もう少し、少しずつですが立ち直りたいです。

だからぜひ応援をお願いします。

 

今、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を聴いています。精神を病んで苦しい治療の末に書かれた曲です。「のだめカンタービレ」で聴いたことがある曲だと思います。