生産性

私にとってはとても怖い言葉でした.、自民党杉田水脈議員が好んで使う言葉です。また、そういう言葉に踊らされている人々の何と多いことか!

障害者の私が職安通いをする中でやっとうまいタイミングで一つの事業所を紹介されました。

簡単な面接の後、タイピングテストを受けました。私にはタイピングテストの経験はありませんでした。たぶん現役の時に作った文書の数は

莫大なものがあります。しかし、タイピングテストで出される意味のない文章を打つ作業は全然別の世界でした。心が入っていかないというか、目的意識が持てない作業でした。いつのまにか意識が遠のいていました。そして、昼食前に応接室に呼ばれまた。あなたはとてもタイピングミスが多い。仕事に集中できていない。

ここは利益を上げなければいけないところです。あなたは利益を上げることはできません。と言われて、即刻、帰るよう言われました.障害者の最後の砦である作業所でもこうして「生産性」が問われるのですね。しかし、私は助かった気持ちになりました。人の作った文書を正確に写していく作業。私には耐えられない仕事だったと思います。正気というか覇気というか、そういうものがない顔か並んでいるように見えました。そうならないと「作業」に専念できないのですね。障害者雇用の世界ってそういうものなのですね。実体験して初めてわかりました。たとえ障害者であってもこうして「生産性」で「評価」されていく世の中なのですね。 

あいにく私は強い意志を持つ人間です。黙って単純作業を続けることはできないことが、ヨクヤわかりました。

高等学校の仕事もそういう「生産性」が「評価」されるシステムになっていました。生徒もその「評価」とともに生活していました。そういう意味では私のような無駄の多い人間は「生産性」という言葉からはみ出ている人間なのですね。そんなシステムが教育の現場から社会へずっと続いていく。そういうシステムなのでしょうか。枠にはまらない人間は排除されていくのでしょうか。

サッカーの本田圭佑が現在の日本社会を痛烈に批判した投稿を載せてました。まさにその通りです。今のシステムの中に安住している年寄りたちを一掃しないと本当に大変なことになると、警告しました。彼ぐらいの影響力のある人間がそういう意見表明することは大切だと思います。TBSのサンデーモーニングの中で寺島実朗氏も繰り返し警告してます。

枠からはみ出た人間が置いていかれる社会はこれからもまだ続くのでしょうか。

我が家は家族全員が精神障害者の家です。生活支援センターの支援を仰いで暮らしています。

特に妻が心配です。発症した年齢が高く、自分の障害を受け入れられないまま2年が過ぎてしまいました。私が精神障害を発症した時には義妹と「ちようどいいお抱え運転手」ができたと話しているのを

私は聞いてしまいました。実際、そういう扱いが続き、私は運転免許を返納してしまいました。

「あなたがいなくても家は大丈夫だけど、私がいなければ訳この家は成り立たない」と言い、私を精神病棟へ追い込みました。

そして、子供たちの障害について主治医の意見を聞くことも去年にやっとやったことでそこから一人ひとりの自立のために障害年金の申請などの作業が続きました。そういう作業を自分一人で進めなければいけない。いつもなら一緒に行動してきた妻がいない。寂しく厳しかったです。あまりのストレスで障害支援課に泣き込んだこともありました。

今の妻はそれまでの発言は一切覚えていない、と言っています.しかし、妻の意識の奥の部分で自分自身が今度は何を言われてしまうのか怯えているように見えます。つまり「生産性」のない人間に転落してしまった意識にまだ囚われているように思えます。優秀な国家公務員だった妻のアイデンティティは崩れ去っていると思います。こうした人間がどう回復していけばいいのだろうか。こんな時だからオープンダイアログを開くのもありかな?と思いますが、誰がイニシアチブを取るのか、主体が私にもよくわかりません。妻は私にあなたは認定心理士だからわかるのでしょうと、言ってくることもありますが、私自身がそういうケーススタディを十分に積んでない状況ではなんともし難いです。