病気の治療と自分自身の回復への道

私自身の障害車としてのリハビリの話をします。自分が精神障害を発症した時期を辿ると日吉台時代まで辿れる。生育歴から考えた時には母が亡くなって1年間近く精神的に厳しい状況もあったが回復できた。

そして、しっかりと障害の発症始まりまで遡るとすると、学年主任時代からそういう傾向が出て来ている。しかし、本格化したのは末吉時代です。気持ちの波のコントロールが難しくなりました。鬱状況が続き、医師による治療が始まり投薬が始まった。「パーンアウト」という言葉がよぎった。そのくらい末吉での準優勝を勝ち取った後、言い難い空虚な時間が始まった。力が入らない状況。そこでわずか1年間で出されてしまった。南が丘に移ったのは請われて移ったことでないことは理解していた。管理職がバドミントンに携わらせようとしていた。しかし、中体連がそれを許さない事情があった私しか使えないソフトの存在である。そのソフトの開発は大会運営そのものを画期的に変化させてしまうソフトなのだが、実は開発当初はとても不安定な状況にあり、不意な事故との追いかけっこだった。忘れもしないのは寒川体育川での神奈川オープン。関東近県から集まっての試合である中体連としてもこれは夏の大会への試金石だった。そこで2回戦で突然データが飛んだ。それまでも不安定なことが続いてきたので、その日は選手名簿のバックアップしたUSBを持っていたので、試合進行しつつ復旧作業が続いた最終的には何事もなかったように辻褄を合わせた。その騒ぎに気づく役員はなかった。

それやこれやで私は中体連から抜けられない事態だった。今考えると抜けるタイミングが失われてしまった。その中で精神的な不安定さから回復は見られなかった。そしてある生徒の生活指導の場面で突然感情が爆発して追い詰める指導をして結果、逆に自分自身が追い詰められていた。休職して精神的な休みを取ろうとしたが結局、転勤をめいじられた。そこにダメージを作ったのは歓送迎会での同僚からすれば些細な悪戯だった。

あざみ野に移ってクリニックを変えたそこで双極性障害という障害名がついた。そのあたりから明らかに生産的な不安定さはどんどんと増して部活動以外何もしたくなくなった。本格的な治療に入った。食事が不安定になった。いきなり大食いしたりして身体的にもおかしくなっていった。ある冬の真夜中、下痢と嘔吐何同時に起きた。異変に気づいた息子が妻を呼んでそうだが、その時点ですでに意識がない。救急車が呼ばれ、血糖値が700あったすぐに昭和大学北部病院へ搬送され、集中治療室に入っていた。気がついた時には全身にチューブが張り巡らされ動けない状況で意識は回復できたが厳しい状況が続いてとうとう集中治療室に7日間滞在して一般病室へ移った担当医は糖尿病の治療に終始していた。学校へ戻った途端、転任を命じられた。気持ち的にも荒んでしまった心理アンケートに否定的なことばかり記入してカウンセリングを受けたが効果がなく、自ら「教師失格」と烙印を押して退職を決意した。

そして退職後、1年間はただひたすら家に籠った。タイミングの悪いことに妻も具合が悪くなったことをきっかけに家族で妻の診察に付き添った時、義妹が乱入し、公衆の面前で子供たちへ「正論」をぶつける子どもたちの引きこもりが始まり、一方、引きこもり生活中の私に義妹は「正論」をぶつけられたことから、私はとても悔しい思いの中、リハビリ施設を探し、障害支援課で障害者手帳の交付等の手続きを自分で行なった。自分の足で一歩踏み出すことが始まった。リハビリ生活は本当に厳しく不安定な精神のなか、一つ一つのプログラムに、取り組んだ。

自分の障害と正面から向き合い回復しようと意識が高まるとともに、スタッフを通じてWRAPと出会い、何度かWRAPに参加していく中で自分自身がWRAPファシリテーターとなって障害を悩む一人として自立しようとした。ファシリテーターの研修は一週に及び川越で泊まり込みで行われた。一つの達成感を持って横浜へ帰った。そしてWRAP教室を開設して、同じ障害に悩む人と話し合いを重ねた。そして放送大学に入学し心理学の勉強を始め、認定心理士の資格取得まで漕ぎ着けていた。

そんな時、妻が自分のクレジットカードから預貯金を引き出されて真っ青になり、その対応に追われている時、教え子の一人から連絡があり「先生、何かあったの?」というので事情を話していくと「先生、このままでは家庭崩壊するよ」と言って次々と資料を送ってくれた。精神保健福祉士をしていてわたしのようなケースをたくさん見聞きしていることから的確に次々と手を打っていく方ができた。しかし、一方で妻がストレス障害を発症し、同時に義母の預貯金や年金の使い込みが発覚し、土下座して義妹夫婦に義母を預ける形になり、その後義母については手際よく介護施設に入所できた。

妻の病状は厳しくまともに言葉も発せられないほどだったが妻名義で支払い続けなければならない出費を止めるため委任状を書かせるのも大変な苦労だったが、何とかクリアして出費を止めるまでの過程ですでに5ヶ月が経過していた。同時進行での子どもたちの障害者年金の申請などかけずり回った私は再就職を決意したがお世話になっていた障害支援課の担当方からはこれ以上やったらあなたの体が壊れてしまう。止められたが、家計を考えると休んでいる余裕がなかった。

子どもたちの障害年金も降りるようになったところで家族全員で家を支える仕組み整えている時、生活支援センターとつながり、家族それぞれの自立に向けた歩みが始まった。子どもたちもそれまでお金をじゃぶじゃぶ浸かっている状態さら自立した生活の再建のための歩みを始めた。それは子どもたち自身の危機意識が芽生えたことが大切であった。

しかし、妻の病状が回復したように見えて悪態をついたり睨め付けたり私の精神的な負担が限界に達して障害支援課へ泣き込んだ。あなたが入院したらと言われても、家庭を誰が守るのかと言うことです病院で相談したところ一緒の部屋で寝起きする生活はやめて、私は離れで寝起きすることとなった。私の就職活動は半年に渡った。やっとついたのがマンションの清掃の仕事だった。しかし、これはこれで社会の裏側の勉強になった。そんな時、高等学校の非常勤講師の話が来て、高等学校の非常勤講師として働きながら高等学校での教育に疑問が生じてきていたことと基本的に片道2.時間以上という通勤による疲労の限界に達してしまった。

妻の私への拘束が次第に強くなった。再び私の精神的な負担が大きくなった。そこで妻の担当医のところへ話を聞きにいくと、すでに病気は治っている。あとは回復しようという自分自身の意思だけとなった。これについては妻の訪問看護師と生活支援センターの担当、そして私の見解が一致した形になった。そして妻の診察からの帰りから妻の悪態、棘のある言葉による攻撃が厳しくなり、私の体が反応する形で血圧が上がってしまった。しかし障害からの回復には妻本人の意思の問題であり、私は妻との接触をできるだけ避けるのが当面の最善の策だという判断になった。あとは訪問看護師や生活支援センターからのアプローチで妻自身の回復への意思を持たせることを加速させることが当面の動きとなった。私としては打てるだけ手は打ってきたのであとは本人次第のところに来ている。そうしないと私の体が壊れるのが先か?妻の認知症が始まるのが先か?という追いかけっこになってしまう。今が一番厳しい局面にいる。