ラフマニノフ ピアノ協奏曲 第二番

また、ラフマニノフを聴いて、涙と鼻汁がとまりません。ソチ五輪浅田真央の名演技が浮かんできてさらに拍車をかけます。確かに私の悩みなんてラフマニノフに比べれば大したことないことに思いますが…。

のだめカンタービレでも千秋君がミルフィーと演奏していましたね。あの場面であの選曲はないでしょう。千秋君の苦しみがふきだし、まだ終わりたくない、もっと弾いていたいというセリフもとても切なかった。

私にとってはショパンでクラシックピアノとお別れしました。一度、卒業式の呼名は副担任にお願いして、卒業証書授与の間、ずっと生演奏で卒業生を送れたらいいなと、考えたことがありました。あの日吉台の連中です。学年主任として本当に至らなかった。辛かった日々の思いをピアノに込めて…。

あの学年、いきなり副主任から学年主任、私も中体連の仕事、密かにやっていた教科書の校正、授業書の執筆。そして、深夜、開業している内科で注射を打ち、朝一で心療内科の診察.本当に迷惑をかけ続けていたことも確かだ。

しかし、担任を兼任することになった途端、担任たちは大森先生が私がNo.2持つから、転任してきた女性の先生が女子は任せといてと、がんばってくれた。

しかし、生活指導担当がADHD気味のチビ一人。他の学年の生活指導担当から楽じゃんいわれて、ニヤニヤしていた。次から次へと私のクラスへ集められた。もし、いつも明るい三人組の女子生徒がいなければ、もっと精神的にヤバかったかもしらない。

クラスの生徒も部活の部員も気づかなきゃうちに手術、入院。

救急車も二度乗ったし、木刀で囲まれたし。

横畑市議会で追及されるし。

今考えればもっと小幡先生、藤本先生と話ができていれば…。単独行動になっていたと思う。

それでもどうしても私を生理的嫌悪を抱いてい先生がいることは私の心をどれだけ傷ついていたか。

その反動が部活に向かってしまったかも知れない。

そういう意味で生徒は悪くない。我々が悪かった。

そんな気持ちをピアノに叩きつけて送り出したかった。

私のピアノの恩師が私たちの結婚式でずっと生演奏で祝福してくれました。私には指に致命的な欠陥があってもきちんとショパンまで導いてくれた.

双極性障害が進み転げ落ちるように落ちていく自分。暴飲暴食の結果、トイレで倒れ、命からがら助かった。田奈にいた時にはもうやめることしか考えていなかつた。せっかく、西中出身の若き顧問も居たのに、何も育てられなかった。

退職後、一年家に籠った。たまたま社会福祉協議会にあった横浜市歴史博物館ガイドボランティアに救われた。それでも先輩の叱責に涙が止まらない日もあった。

義妹の正論に娘が完全に家に篭ってしまったし、私もなじられた。妻と、ちょうどいいお抱え運転手ができたじゃない。妻は否定しているけど、私は覚えている。そして、妻はただ子供たちがかわいそう、と抱え込み、必要以上のお金を与え続けて、まったく自立訓練への道を閉ざしてしまった。あなたがいなくでもうちは大丈夫とまで言われた。気がつくと、まくらの上に残薬が山になっていた。妻が気がついて片付けた方、精神病棟に入れられ、外部との接触ができなくなった。ただオセロが流行っていて、私に挑戦してくるおじさんに必ず一勝譲った上で後の二勝は頂いていた.閉鎖された部屋の女の子と親しくなった。きっかけは朝の散歩。最初は抜かされていたけど、いつのまにか一緒に歩いていた。退院する時、たった一人手を振ってくれた…。

やっと放送大学もう卒業間近になって…。

苦しい苦しい30キロも痩せてしまう半年間、役所などを歩き続けた日々。家の経済の就職したいと言った時、障害支援課の地域担当の堤さんに必死に止められた。それでも就職活動と続けた。面接しては履歴書などを何度書き換えていると、畳の上で朝を迎えていて、妻が起きる前にお湯を沸かし、食器を元に戻して、ゴミ出しして、それでも妻は睨んでくる。耐えられない。障害支援課に駆け込んだら、あなた、入院したら、といわれて、メンタルセンターの受付まで行ったら、私の顔色を見て、今日は先生忙しいけど、代診でいい?と言われて、とにかく離れに逃げた。

放送大学はいったん卒業します。だけどまだやり残したことがある。こんな私でも残せるものがあると思いたい。今日はメンタルの診察が始まるまでの間に図書館で何冊かある目的に向けて、本を借りて、レファレンス検索をした。

家に帰ってからは訪問マッサージで悲鳴をあげて、夕食時、娘、息子、私で楽しく話しているところに、妻がつまらそうに後ろ向きな話をしで、いつも温厚な息子が、お母さん、やめて!と言っても、ウロウロしている。

まだ春まで遠いですね。

次の楽しみは土用の丑の日のうなぎ弁当。

ラフマニノフも終わった。おやすみ。