虚しい別れ、

南が丘で私は再び体調を崩し、休職せざるをえませんでした。とても辛い日々が続きました.、そして復帰した時には転勤がきまってました。

その時のクラスでは新しい試みをしていました。「掃除当番をなくす、自分自身が本当に教室を綺麗にしたい気持ちのある生徒だけで掃除をする」という方針を打ち出しました。一日目誰もいませんてした。しかし、一人ひとひたと一緒に清掃する生徒が増えていきました。しかしら私の体も心も限界で休職になってしまいました。私の考えたことは覆さられ、清掃当番ができました。清掃をやらされるごとになっていってしまいました。

 

光明先生の娘さんが同じ学年にいて、年賀状でいないとつまらにい。と書いてきてくれました。私ももう一年付き合いたかつたです。

 

私はこの学年にお土産をのこしました。卒業式の音楽をすべてポピュラー音楽のインストロメンタルが流れ続ける音楽CDGです。よろしくお願いします。と残していきました。

 

ただ歓送迎会の席で私は非常に屈辱的な扱いをさらました。それをやった先生はじょーくだったかもしれません。しかし、私の心はそれを流してしまうようだけ回復していませんでした。屈辱の思いだけが残りました.祝電をおくりませんでした。バドミントン部の佐野先生が蒲田女子杯で顔をあわせた時、「担任だったんだろ」となじららました。私はそれ以上なお土産を残してきたことは次の担当者によって握りつぶされたことを悟りました。

 

いろいろな意味で私がやってきたことは何の意味のないことにやってしまいました。本当に早く教師を辞めればよかった。