夕食が食べられない。

ここ一週間、身体の不調が続いています。血圧の乱高下、体中に走る軋み。特に方から肩甲骨がバリバリになっている。夕食も妻なりにサラダは夕食の2時間前に切ってお皿に分けて、オリーブオイルをかけてなじませてくれている。影でどれだけ努力して夕食を作っていてくれているか。

しかし、「生協のおかずセット」のおかずを見た瞬間に胸やけして嘔吐しています。

しかし、一度失われたメニューは戻ってこない。娘と私の夕食作りまではまだ段階をふまなければならない。

当面の打開策として「ヘルシーネットワーク」の利用に踏み切った。.正しいままでより2倍割高になるので1週間すべてというわけにはいかなので、3日間分を注文することとしました。

もともと「生協のおかずセット」に妻がこだわっていた理由が400円という安さであったわけでした。今の妻の思考はそれがいくらかという問題意識だけであり、バランスなどの配慮には現在は思い至ってないようでした。発病直後は注文書を書くときに一緒にいたところから次第に離れていったところ、こういう単純なパターンになってしまいました。いまさら何かメニューを増やすことに妻は抵抗を示します。「これはできない」となるとテコでも動かない傾向が強くなってきました。病気からは回復したとはいっても、食事作りの面ではなかなか切り替えがつきません。

そのへんも介護認定調査前に伝えておきました。妻にとって「要介護1」は受け入れがむずかしい様子です。これからケアマネとの面談・契約が待っています。

私の身体面の厳しさに比べて妻の心理面の厳しさへの対応は難しいものだと思います。実際、毎日顔を合わせている子どもたちから見ても当然の結果である。

家事も息子は頑張っていいるし、娘も次第に代行できるように成長してきている。そのきっかけが二人にとっては遅かった。しかしまだ遅すぎる訳でもない。しっかりと成長を見守りたい。将来的に施設で暮らす時には「料理当番」「買い物当番」など社会的生活が要求されます。時間的な部分を考えるとこれからも支援をうけながら成長を待ちたいと思います。娘は放送大学ではどんな科目があるのか聞くようになりました。実際に教科書や番組を見せて興味が湧いてきたようです。高校では発症後は長い間、周囲から離れてしまいました。さらに「学校」への距離を置いたままになってしまいました。しかし、もともととても「知的好奇心」の高い子でむしろ放送大学で学ぶことで娘の特性が活かされると思います。食卓の手の届く範囲に「専門書」が積み上げられていて、なにげなくそういうものに触りながら育ってきたわけで娘の精神的な成長がやっと追いつてきた。無理に通信教育を勧めても反発するばかりでした。娘について私は「お前は私の自慢の娘だ」とくり返しています。精神疾患で行動が制限されていても、さまざまな学習の選択肢はあったわけでやっとたどり着いてくれたと思っています。

考えてみると娘は普通の学校教育に適応できていなかっただけであるとが原因になっていたようです。そこまで大変なコンプレックスがあったわけですが、最近は訪問看護師さん同年代になってきて刺激をうけています。正直、早いか遅いかだけの問題でした。むしろ娘を知的には成長が早かったことを理解する環境が追いついていなかったと思います。小学校時点ですでに担任と衝突したのも担任の授業研究不足が不足だったからのようです。具体的に言うと、「海のおさかな」という勉強の時に担任が「たこ」「いか」も書いてしまったそうです。娘は担任に「たこやいかは甲殻類です。魚類ではありません」とやって、新任の学級担任がそれに対応できなことに腹を立ててました。「良い子ちゃん」ではなかったことでコンプレックスを抱いてしまったようです。まさに「この親にしてこの娘あり」を地でいってしまったようです。親として「個性」として見ていきたいと思います。現在の「金太郎飴教育」では「異質」なものだったわけです。私も高等学校の現状を見れば適応できなかったことがよく分かりました。娘のような生徒のニーズに応えられない現在の高等学校教育に問題があったと思います。そこを妻にしろカウンセラーが理解していなかったと思います。やっとそういうものから開放され始めたところです。いわゆる「優秀な方」には理解できない「こども」だったことです。今は私のもとでグイグイと力を伸ばしています。しかし、この先は自分で道を切り開いてほしい思います。詰め込み型ではなくマイペースで勉強を進めてほしいと思います。

妻や義母からは「異質」な娘でした。まわりの環境は「優秀な」成長しかみえていなかった。それしか選択肢がなかった。

逆に息子の場合も息子の「個性」を考えることなく、「大学へ進学させること」に躍起になっていた妻。その選択肢しか見えていなかったことが大学生活での不適応になっていたと思います。結果、卒業まで何度も卒業発表の失敗を繰り返しました。そのことが本人を大変に傷つけることになりました。

妻は全部、私のせい、と言います。その時には私は精神疾患を発症していて「外れた」人間として認識されていたように思います。

生育歴から考えると妻には一本線の道しか見えていなかったことがあったと思います。大学で総長賞をとった。国家公務員になった。それが何なのでしょう。今こうして精神疾患を患ってはじめて本来の人間の幅の狭さにあたっているようにみえます。

かつては美術館巡りが好きでたくさんの図版や写真集を集めていましたが、今は見向きもしません。「自分が浪費した跡だ」として封印しています。

私にとって二世帯住宅の住み心地は良いものではありませんでした。妻の両親との価値観がかみ合わない思いを繰り返しました。確かに二世帯住宅を利用しました。自由に動き回りました。二世帯住宅を作るにあたって私は義父と同額負担しました。しかし、あくまでも「婿様」扱いであったこと。下に自分の父母がいることで遠慮がちな生活になりました。

私の場合はキャリアの再構築に挑んでいます。そこまでまだ時間が必要です。体を保たせなければいけません。