お前の歴史は講談だ!

資料の印刷に5時までかかってしまいました。

昨年1月家の中が大騒ぎになる中、一万冊の蔵書を歴史専門の神田の古書店を探して売ることにしました。中には国史大辞典の初版本がありました。ところが古書鑑定の方は「今はそんなものは二束三文ですよ」と言ったのけるではありませんか。BOOKOFFと何の変わりもないですか。たった39万円で全て引き取られました。まるで人の弱みにつけ込んで詐欺にあった気分でした。これなは都筑図書館に寄贈すればどんなに良かったか。しかし、そのくらい歴史の勉強はしていました。

高校3年の時、担任の進路指導はほとんど耳を貸さず、ひたすらシンガーソングライターへの道を夢見ていました。そんな中、神奈川大会は渡辺真知子が席巻しました。そして、関東甲信越大会を経て、私は静岡の掛川市つま恋の本選会へ行きました。各地の予選を勝ち抜いた人たちはすごく高いレベルでした。しかし、その中では圧倒的な存在感をしまいたのは中島みゆきでした。北海道地区予選と曲を変えて出てきました。それが「時代」です。めちゃくちゃスケールが違いました。しかし、東海地区代表の日大文理学部三島校舎の軽音楽部が入賞しました。そして、東海地区の女王・八神純子がプロ転向することがわかりました。私の進路はこれで決まりました。練習は厳しかったです。何度も合宿しました。私は前年に入賞した先輩からキーボードを譲られました。定期演奏会では全員の楽器のチューニングを任されました。

しかし、実はこの先自分がキーボード奏者として、小学生の時の左手の薬指の大怪我はカバーし切れないことを感じてました。そんなタイミングで学部の講師に呼び出されました。使えの上に一枚の古文書何ありました。読めませんでした。私は中学生の時、学年主任の社会科の先生から歴史の授業を1年間任されていました。高校の日本史の先生は新卒てした。しかし、日本史の先生は完全に私におちょくられていました。わずかな機関の教育実習の経験の先生が相手なら私のは方が上手でした。テストを出題しても軽々満点を取られます。とうとう128点満点のテストを作りましたが。クリアされてしまいました。そういう意味では大学の教養課程の日本史も私の態度はそのままでした。そんな私に鉄槌を下してくれた先生に私は新しい進路をひらかせてくれました。日大文理学部史学科は多様な先生たちがいました。私は古文書が読みたいので、専門は中世ですが、肝心の中世史研究会ては古文書の解読ができないことがわかりました。そこで古文書の解読をしている近世史研究会へ入りました。すぐに農家の蔵に入ったこもんじよをお借りして、近くの旅館の大広間できない解読作業がはじまります。古文書辞典と漢和辞典を使って原稿用紙に書き込んでいきます。

ところがこの古文書が虫喰いになつています。先輩はこの虫喰い部分も類推してしまいます。

しかし、もう一つ大変な敵がいます。文書を虫喰いしている正体はダニです。この痒さとの戦いも待っています。一区切りして、全員で銭湯へ行きます.よく洗い落とします。

夏休み考古学の先生に呼ばれました。ちょうどいい発掘現場があるから一カ月ほど行って来い。発掘現場は三島市山中城跡です。まず始めの現場は障子堀です。後北条流の城によく見られる堀です。いったん下へ落ちるとそこを狙い撃ちかれます。堀の中は関東ローム層でツルツルしていて一度落ちたら出られません。実際に豊臣秀吉が小田原に攻め込む時、この城は東海道上で向かえ打都筑重要な城で徳川家康などが攻撃にあたりました。ものすごい激戦で豊臣方の武将も戦死しています。徳川軍はあらかじめハシゴを用意して堀を渡って攻め込んだそうです。落城すると、城の中のいろいろなものが堀の中に投げ込まれます。鉄砲の弾は当時は丸くて、うっかりすると転がってしまいます。堀の中の遺物を一つ一つ高校生たちが測量してくれます。うっかり金箔を踏もう物なら怒られてしまいます。発掘していた日用品も多く投げ入れられているのですが、ご飯茶碗が現在使っているものと変わらないものが使われていたことは勉強になりました。

こうした本物に触れる経験をたくさん大学にいる時にできました。そういう経験の積み重ねが授業のもとになりました。そういた勉強の仕方は3年生以降のゼミで教授が古文書を持ってきても自信を持って読めますし、現地をあるいてきているのて、説得力のある話ができたした。

そんな自信が実際の授業で説得力のもとになったと思います。

教員採用後は読図研究会で地形図から土地利用図を何枚も作成していました。地質図と併せて実際の暮らしを再現していく力になりました。こうした資料のをベースに先輩から指導を受けていました。

正直、文化祭の学級発表の蓼科山の立体模型の作成は翌年に登るイメージ作りでした。ただ地形図を見ているだけではわからないことがいろいろと学習できたと思います。

こういうのが生きた学習だと思います。そういう意味では浜中で飛鳥修学旅行の土台は一年の時から積み上げてました。それは私一人の力ではなく、いつも私を支える相棒の存在、いつも私のやることや信じて見守ってくれる先輩方。学年全体をまとめてくれた学年主任の先生。体育館では鬼顧問でも授業には手を抜くことはありませんでした。

楽しく授業することは大切です。しかし、私は社会科教師のプロフェッショナルでなければいけないと思って頑張りました。