日吉台 余話

日韓共催サッカーW杯が開かれた敏雄。日吉台の生徒の中で「ゴール」と「シュート」の名前をつけられた兄弟がいました。半分、照れて、半分、誇らしくしてました。二人とも何度も日産スタジアムに通っていました。

日韓共催サッカーW杯の日本対ロシア戦が港北区の小中学校は生徒は自宅待機となりました。

さて、職員は視聴覚室へ集まります。誰かが用意したのか、全員分のジャパンブルー上着が用意してありました。仕掛け人はどうもサッカー大好きの若い英語の先生だったようです。今日ばかりは視聴覚室のカーテンはかたくとざして、応援がはじまりました。稲本のシュートの決まった瞬間の盛り上がりは最高潮でした。

 

忘れられない味、グリーンカレーです。日吉台に最初にお世話になった木村副校長。タイの日本人学校から日本に帰ってきたばかり、すっかり現地の文化を持ち帰っていて、1年の自然教室でキャンプファイヤーがないと聞いて、ただも残念がっていました。なぜなら現地でファイヤーダンスを覚えて帰っていて、ぜひ披露したかったそうです。たぶんこれを浜中でやってもらったら、絶対に盛り上がったこと間違いないです。ちなみに木村先生と入れ替わりにタイへ赴任したのは戸崎先生でした。家庭科室で本場のグリーンカレーが作られました。今考えると、レシピ聞いておけばよかったと思います。コンビニにグリーンカレーを書いてあるレトルト食品が並んでますけど、あれは紛い物です。今でも舌に残ってます.

 

文化祭の開会式で吹奏楽部が演奏するのが通例でした。吹奏楽部の先生は転勤される気持ちだったようです。音楽科の授業に出られないことがあり、私に代わりに行ってもらえないか?と「サウンドオブミュージック」のレーザーディスクを渡されました。ただ流せておけばいいのに、寺尾中で音楽科だった時の知識が顔を出して、このアルバムの時代背景、曲の解説、主役のジュリーアンドリュースの話しなどしてしまいました。卒業式の式🎤に「旅立ちの日に」を選曲して、卒業式の最後に横瀬先生からこの歌を選んだら過程を離してもらった経過があります。だから私の学年にも…と思っていた引き続いたいなとおもっていましたが、簾田先生は「大地讃頌」に強くこだわってました。簾田先生もあの学年の3年間授業してきたプライドもあったと思います。ただ私は寺尾中で免許外で音楽の授業を持っていたし、浜中では合唱コンクールで「大地讃頌」で優勝させてもらいましたが、それは男声、特にテノールが最後に綺麗に伸びていたからこそ完成したのであって、学年全体を歌わせるのさ難しいと思ってました。やはりこの学年の生徒全体には難しいとなったところで、いきなり合唱コンクールを強行しました。一部の生徒は黙っていませんでした。卒業式前に乱闘を始めました。しかし、彼らには別の目論見は別にありました。私が止めに入った途端、一斉に飛びかかり、私も応戦する形になりました。なんとか学年職員から救い出されて職員室に行って見た光景は生活指導担当が職員室でお茶しながら談笑していました。ちなみに彼は私の高校の後輩です。

私の高校の人が見ればわかります。彼は私の高校が勝ち上がって横浜スタジアムまで進出した時に2年生で3番を打ってました。相手は横浜高校。1年生投手が登板しました。そして、私の高校はノーヒットノーランです負けました。それが甲子園、

体育館の方では女性の先生方で生徒を宥めようとして、卒業アルバムを配り始めました。しかし、中には何冊かくすねる生徒がいて数が合わないのです。とにかく不登校の生徒たちへ家庭訪問して配りました。だから私の手には卒業アルバムはありません。

あの学年の卒業後の職員旅行は欠席しました。どうしてもこの職員集団と3年間を振り返りたくありませんでした。水に流せない3年間でした。