懐かしい方からのお電話

浜中には10年間、お世話になりました。そのうち、4年目から10年間.学年主任、教務主任としてお世話になった高橋直弘先生からお電話をいただきました。

私の方がご無沙汰しているので、わざわざ電話をいただきました。高橋先生が学年主任をされた最初の一回り、私は副担任からのスタートでした。ところが担任の先生の一人が8月末にいきなり出家されてしまいました。誰がそのあとの担任になるかということで8.月31日、バドミントン部の練習中、校長室へ呼び出されました。明日から担任をお願いします。そのクラスは私が受け持ってないクラスでした。

クラスの生徒と顔を合わせるのは朝と帰りの学活。そして、道徳、学活が2時間プラスされることになりました。まず、生徒の顔と名前。生徒も私の授業を受けた経験がないので、私という教師に対して面食らっていました。すぐに保護者会が開かれて、当時の学年主任の鈴木先生から「金剛地先生はベテランですから、大丈夫です。」とおっしゃいましたが、それでも不安な顔が並んでいました。そこで私が「学級通信を毎日発行したいと考えています。隣に座っていたベテランの先生が「無理はしてはいけなよ」と囁きました。確かに時間数、生徒会、文化祭を担当してとても忙しいところへ部活動も軌道に乗ってきて休日返上で活動していました。また、中学校体育連盟の専門部役員の仕事もありました。客観的に見ればとてもきつい状況でした。

クラスの生徒はそれまでの先生への想いから切り替えられず、私もそれぞれの生徒と話をしていく機会をどう作っていけばいいか悩みました。とにかく保護者で宣言した通り、毎日、学級通信を書くことが日課になりました。すぐネタ切れになってしまう危機と隣り合わせでした。3年になって、再び私のクラスに戻った生徒は当時の私のあたふたぶりを見て、小馬鹿にしていたそうです。毎日毎日がきつかったです。ずいぶん学年の先生からフォローを受けながら、先の見えない学級経営が続きました。文化祭担当でありながら、自分のクラスの学級展示は「熱帯雨林」。十分に話ができなかったと思いました。

2年生は最初から担任となってバランスの取れた時間数になりました。転機は自然教室でした。蓼科山を登っている時、学級委員の神林さんが「敏雄さ〜ん、早く上がって来て!」を声を掛けてくれたことです。そして、夜はキャンプファイヤーです「マイッチングマチ子先生」という出し物で大受けしました。そしてなんといってもこのクラスが頑張ってくれたのは合唱コンクール。2年生で「大地讃頌」を歌って優勝。とても盛り上がったクラスでした。

3年1組の時、私の娘が生まれるという私にとっては大イベントがありました。その日、朝学活の時に職員室より電話です。という連絡があり、すぐに職員室の電話に出ると妻の母から娘の誕生の知らせでした。職員室から3年1組の教室は見えます。教室に負けてVサインを送り、教室に戻ると、一斉にクラッカーが鳴って、黒板には「真梨子ちゃん、誕生おめでとう」と書いてあって、一面に祝福の言葉が書かれていました。卒業式、クラスの呼名が終わって、職員席へ戻ろと、3年間のいい思い出、辛い思い出が全部溢れ出て、嗚咽になってしまいました。隣にいらっしゃった高橋先生が一緒だった6年間で一番よく覚えている。と言われました。

そして次の学年の修学旅行について英輝先生と「もう、京都グループ行動」はやめて、「飛鳥」へ行こうと話して、高橋先生に相談したところ快諾していただきました。奈良は食事の美味しい宿泊施設は2つしかない、という話でした。「飛鳥」といえば「大化の改新」、その話し合いが持たれていたという伝説のある談山神社の隣りの「談山神社ホテル」に決定しました。自分で下見して生徒指導上も申し分ない施設でした。次の3年間は英輝先生とコンビで様々にイベントを打って行きました。私が企画する。英輝先生が実行委員会へ下す。このパターンで行事が進んでいきました。この一回りの3年間、私の体罰事件やバドミントン部女子で体調不良になってしまった生徒もいて、本当にどれだけ学年の先生にカバーしていただいたか?3年生の年、10年目を迎える私はここを一区切りする気持ちですいました。

3年の学年末、3年生を送る会の企画などは若い先生方に任せて、私は深夜、放送室でビデオの編集作業を続けていました。そして、3年生の最後の学年集会で私が編集した「3年間の思い出ビデオ」をながしました。ビデオが終わると、とても沢山の拍手をもらえて嬉しかったです。そして、3年生を送る会で、英輝先生のクラスは「お世話になった人を舞台に上げろ!」という企画で英輝先生のクラスにいた純子が私を舞台へ引っ張り上げました。とてもニコニコした笑顔何忘れられないです。そして卒業式はつつがなく終わり、バドミントン部ともお別れしようとしていたら、校長室に呼ばれ新旧のPTA会長をはじめ、来賓の方々が並ぶ中、ご挨拶させていただきました。高橋先生もそこにいらっしゃって喜んでいただき、それから英輝先生へ引き継ぎのためのデータを

MOにまとめて浜中を去ることになりました。