ピアノのお稽古

我が家にピアノがあったので子供の頃たちのピアノの先生選びに自分が関わっていなかったことを、すごく悔やんでいる。幼稚園でやっている音楽教室へ通ったのだが、一回だけ練習を見て、この先生、ピアノを楽しませてない…と思っていたらいつの間にか二人ともピアノから離れてしまった。

少なくとも基本が大切なことがわかるが、音楽理論からガチガチに入っていったらピアノを弾く楽しみは湧いてこない。結局、ピアノが埋もれてしまう結果になってしまった。妻の一家には音楽を楽しむと習慣のなかったのがこの結果になってしまったとおもう。妻を見てると「音」でしかなく「メロディ」ではない。今の妻の回復の遅れもそういう感性のなさも一因の気がする。自分ももっと家にいてあげて良い音楽に囲まれた生活をしていれば、今の我が家の危機の乗り越え方も違っていたと思う。

チェルニーからモーツァルトへ移った時、本当にワクワクした。ただチェルニーは苦しんだ。でも嫌いにはならなかった。こんな表現があるんだ.こんな表現があるんだ、と基本を一つ一つ楽しみながら弾いていた気がする。もちろんチェルニーだけでなく「エリーゼのために」など時折り楽しましてもらっていた。ただ高校生なる時はショパンを選んでいた。もっとモーツァルトやベートーベンで基本をしっかりしなければいけなかったかも知れないけれど…。

高校の文化祭で自分がチューリップの「心の旅」を歌う、一つ前で3年生の先輩がドビッシーの「展覧会の絵」をシンセサイザーで演奏された時はショックを受けた。自分がまだ中途半端なところにいることを痛感した。

ただ自分の高校(柏陽高校)がそういう環境だったことは得難い体験だったと思う。だから正直言って、他の高校の文化祭へ行ってバンド演奏を聞いて、こんなものか…と思っていた。

3年生の選択教科で音楽を選んだ時は先生からは厳しかった。「そんな力で音楽に進める思ってるの」と

こっぴどくやられた。だけどいい加減な指導ではなかった。表現者としての自分を磨かれたと思う。それは大学の軽音楽部で活かせたかなとと思っている。

さらにそれが教師生活の中で活かせたかどうかはおしえごまちの評価に任せたい。

ただ

浜中で特別活動指導部に入り、最終的に特別活動指導部長になるにあたっては何らかの影響はあったかな…。

日吉台ではブラバンと毎週の休日は、終日練習をしあっていた。分野は違っていても楽しかった。音楽科の自習の時間を、任されたりして、どこか通じ合っていた。だから文化祭のオープニングでソロです歌ったりした。また、あの時、「旅立ちの日に」に出会ったことも忘れられない。富士山麓の西湖へ自然教室の下見に学年職員全員で行った時、自分の車の中はずっと音楽が流れ続けていた。

末吉の時に自分のクラスの自由曲を音楽科に勝手に決められたことは学級担任として、何とも悔しい。確かにあの時、県大会優勝という重みを背負って苦しい日々が続いた。何のために学校へわからなくなるほど重圧に苦しんだ。あのマジックのような県大会準優勝は私に私に大きな心や傷を残す結果になった。(私には、今でも他のどんな顧問にも絶対に真似できないマジックだったと思っている。後で、県の部長になる畔上先生だけが最後までそれをわかっていたと思う)。それだけに自分は関東大会後、完全に腑抜けになっていたのは周りから見て明らかだったかも知れないけれど…あれで立ち直るきっかけは完全に奪われた気がする。トドメを刺された。今考えるとあそこで何か転進する発想がなかったのだろか。どこにも居場所がなかった。

南が丘で職員バンドをやってもそれは一時的な癒しに過ぎなかった。

そのあと、しばらく音楽が途切れた。

リハビリする中で少しずつ、音楽が帰ってきた気がする。

でも、本当はピアノの練習を本格的に再開することしかない。そんな気がする。ライブに通い、音楽の感覚を取り戻して、家で練習する。そういうことから始めないと自分が取り戻せそうもない。

最初は「子犬のワルツ」から始めようかな。

ショパンの入門曲のような扱いされているけど、この年齢になるとこの曲の背景。ショパンとジョルジュ・.サンドの関係とかいろんな要素が頭に入ってきて、高校生の時に譜面を見て弾いていた時とは、今はまったく違う。

そして指が硬くなってしまっている。

基本的な運針からやり直すしかないだろう。

また、耳が遠くなって自分の音が確かめられなくなっている.

それでも自分自身が立ち直るにはそんなことしかないのかな。