移動本部

私のワゴンは正式には8人ですが、部員たち全員を乗せると15人近くなり相手校の先生が一人ずつ数えて、目を丸くすることもありました。私の方針では選抜メンバーだけで戦うのではなく、チーム全体で戦うことでした。そして、荷台にはパソコン、、プリンター、審判用紙を挟むボードを16面、鉛筆は多数。時には鉛筆削り機も必要になります。電源ドラム、カート、16面分の選手の水筒やタオルを入れる折りたたみのカゴが積んであり、かいじようにいちばんのりすると、まずコンセントを探し、机や椅子を出して、本部を設営し、そこで一回戦からの審判用紙を印刷を始めます。

前の日までに作成したプログラムを配りつつ、名簿の確認を行います。手伝いの生徒にコート別に審判用紙を挟んでもらいます。試合が行われて結果が出ると、すぐにパソコンに打ち込んで、次の試合の審判用紙、トーナメント表、シード表の途中経過をセロテープで貼り出していきます.

横浜市大会が進行しているさなか、他地区の試合結果を送ってもらって、県大会の選手名簿作りを市大会の大会運営と同時進行で行います。県大会の抽選までほとんど間隔がありません。インターネットが普及していない時は、FAXて所定の番号で送ってもらうと、私のパソコンの画面に表示して、それを印刷できるソフトを入れてありました。各地区大会ともまとめに時間がかかるのは承知しています。しかし、一刻も争う状況なので、つい、きつい口調の電話で他地区の長から胡散くさされていたと思います。

しかし、こんな離れ技ができたのは日本バドミントン協会の浅見先生と知り合って、「大会運営システム」をのソフトをダウンロードさせて頂きました。最初は使い慣れず、大会中にいきなりデータが飛んで、大会参加名簿を別に印刷してあったのをみながら、データを、入れ直しつつ、大会運営ソフトを使い続けました.この大会運営システムは国際大会で使っているものと同じです。

そこまで来るのにはWordを使ったり、Excelを使ったり試行錯誤の連続でした。Excelのプログラムを組んで、得失点表を作ったこともありました。

リーグ戦が得失点差が1点で順位が入れ替わるケースもあり、まわりの先生方も私の作業を見守っていました。

そして、結果はすぐに中体連本部、神奈川新聞、TVK、など報道機関にすべて送りました.、遅れると今度は私が催促されます。他の先生方はすでに反省会へ向かっていても私は作業が終わるまで離れられません。ずっと20年近くこの状況が続き、私はすごくストレスを抱えていたと思います。中体連の部長は何人か変わっていきましたが、私の書記の仕事に代わる人はいませんでした。そういう意味で、私は本部から離れられず、自分のチームの様子は補欠の選手たちが見に行って報告してくれました。末吉で1年間だけ一緒に練習した選手たちの夏の大会。ビルの最上階で猛暑の中、一人パソコンの前で打ち続けました。地区の先生が代わる代わる私の頭の上と腕に氷嚢を乗せ続けた大会は忘れられません。選手も何人も熱中症で試合進行はどんどん遅れました。

おかげでレイアウトも私の方でお願いするようになりました。

反省会には終わる頃に駆け込みました。

さらに関東大会、全国大会の準備が続き、ほとんど夏が終わってしまいました。