原先生

あえて、この先生のお話をさせていただきます。原先生は私にとってお荷物な先生でした。行事でどこに配置していいか、本当にこの先生にどう動いてもらうか、頭を抱えていました。自分の思いが強い割には「使い物にならない」先生でした。しかし、高橋先生は少し明るい服装にしたらどうですか。とアドバイスしてました。同じく定年間近の先生で新体操部の顧問の先生の立ち姿の美しさはこんなふうに定年までいけたらいいなと、体育館で、隣で練習していて尊敬の念を抱いてました。

私がイライラしていると内田先生が「こんちゃん、教師の給料は生活給なんだよ」と何度かなだめられていました。

自分が原先生と、同じ「役に立たない教師」になってしまうなんて…。

私も必死にやっていましたが、それ以上に足を引っ張っているのは自分になっていました。言い訳はなんとでもできますが、できないことにはちがいありません。それもタチも悪いことに部活だけ出きる。身体はインシュリンを打ち続けている。

最悪なのは答案用紙を前にすると、作業ができないのです。頭が混乱してしまい一週間休みました.誰にも言っていませんでたがところが日曜日の強化練習会にのこのこ顔を出してしまいました。あざみ野の先生方からはものすごく顰蹙を、買っていました.その時、私もここまで落ちぶれるか、という思いでした。双極性障害がどんどん進んでいました.

さらに、腎臓、糖尿が進行して、救急車で運ばれ、ICUに一週間。私が「原先生」になってしまいました。いいえ、それ以上にひどい教師になっていました。定年間際の先生がどれだけ厳しいものか、私にはわかってませんでした。無事に定年を迎えるかことがどんなに難しいものなのか、私にはわかっていませんでした。高橋先生からも定年間際の先生に対して、どう対処するか、教えられていました。

浜中当時、私は自分の力を過信してました。