南が丘Bチーム

当時の南が丘の顧問は力はある選手以外は野放図にされていました。その子たちの担当をするこおになりやした。まず丁寧なラケットワーク。床まで這いつくばるレシーブ。徐々に教えていきました。それまで野放図にされてきたところに一つずつ指導が入ることで生徒たちは当時のAチームの自分自身がプレーヤとして、インターハイ出場歴がある。力の見極めは確かだ。しかし、それ以外の生徒は放り出されてしまう。彼の指導ては故障者が次々と出る。下半身が十分できていないところで彼の自在のノックについていくのは無理が生じてしまう。そしてミスをすると、外周をグルグル走らされる。

私の指導方針とは相容れない。お互いに干渉しない方向で練習は続けられた。割り当てられたのは1コート。その中に詰め込まれる形の練習になるので練習の工夫が必要になる。ダブルス、シングルスの区別はなく、基本練習の繰り返し。一回にたくさんの人数か入れるような練習が必要だ。そこで早いタッチで素早く入れ替わる「3人ローテ」などの練習をさせる。まだ私の身体はそれなりに動いていたので短い時間で入れ替わり手投げノックをした。いかに床ギリギリでラケットを潜りこませるか練習した。一人当たりの練習時間は本当に限られている。とにかく「触る」ことを要求した。ネットギリギリのタッチの練習。そんな練習しかできていない。ただAチームに欠員が出ればすぐに補強できるようにしていた。誰を指名されてもいいように練習していた.男子の特別にノック練習を受けている生徒たちも混じっていた。ただ休み時間、私と練習マッチをした。

とにかく他の部活の顧問が呆れる長時間練習.やってもやってもやり足りない状況にいた。そのうちに私の身体が変調を起こして休職してしまった。彼らはどう練習していたかは私はわからなただ彼らなりの夏ではあったようで私が復職して卒業をむかえた時、それなりの満足を得て卒業して行き、その後も彼らとの連絡は途切れなかった。むしろAチームの生徒たちの不満も受け止める形だった。