日吉台中へ転勤

初日、ノートパソコンと携帯電話を持って現れた私は日吉台の先生には一種の革命的なことだつたそうだ。職員室で挨拶したが、知った顔はひとりもなかったし、第一、校長面接も新しい体育館の話に終始して、学校内の様子もわからなかった。キラキラした眼を、していたいす泉。そして、学級委員になってくれた女子生徒幼稚園の先生になりたい。と言ってきた。男子たちもワクワクしているのがわかった。いかにも酒飲みの学年主任。背筋がピンとしてスーツの似合う長身の先生。気の強そうな女性の先生たち。まず横瀬先生、藤本先生、小幡先生が、声をかけてきた。また、パワフルな女性の生徒指導専任先生もやってきた。その晩はカラオケだった。横瀬先生は「高原列車は行くよ」をねっしょう。藤本先生は「心の旅」と郷ひろみのなって「2億6千万の瞳」を歌っていた。少し心配になったのは私の学年職員が一人もいないかとだった。早速バドミントン部に紹介された。思った以上に多数の部員だった。しかし、バドミントン部員は次の日から毎朝、職員室前でチャイナステップの洗礼を受けた。若い運動部の先生たちは口々に「バドミントン部が跳ねてる」と言っていた。校務分掌も特別活動指導部で校則の見直しがテーマだった。進路主任の渡辺正明先生も一緒に始めることになった。会議が始まると、窓の外から体格の大きい生徒が現れて「俺に委員長をさせろ」という。どうやらおいでなさったようだ。正明先生がうまく本人をのせて「委員長」に祭り上げてしまった。

当時の日吉台は100近くの校則で生徒が縛られている状況だった。正明先生と私は本当に人間として必要なことだけにしよう。という方向性で一致した。

100近くあった校則は長年にわたる生徒指導の困難さから基本的にわかったが、校則で決められているからダメでは生徒の判断力を信頼していないことになり、彼らは自立できない。そんな話を坦々麺を、食べながら重ねていった。校長は私と同じ日本大学だった。日大出身で教員になったものは桜師会に所属します。校長と一緒に藤沢の日大農獣医学部で行われた総会に六会まで行って桜師会総会に出席した.総会を前にたくさんの動物の剥製を、見学した。

副校長の戸崎先生の先輩でレクリエーションの分野では知らない人はいない存在だった。自然教室ではキャンプファイヤーでファイヤーダンスを披露する気満々だったが自然教室ではキャンプファイヤーはなし、私のネイチャーゲームも不発にと終わった。

文化祭で横瀬先生は演劇でした。大変な手間がかかったとそれを教員生活で何度も繰り返されたことに尊敬します。私は浜中の澤野先生のやったドミノをパクリました。カセットテープのケースを集めました。横瀬先生が大量に持ってきてくれて、「一体何をやるんだ」と首を傾げてました。空のカセットケースに色紙を入れていきました。前日はそーっとそーっとならべました。当日のお昼前にドミノを倒しました。生徒の歓声があがり職員室にいた正明先生も「やったな」と思ったそうです.するとクラスの男子が一回だけではつまらないと言い出し、また、そーっとそーっと作業が始まり今度はちがう字をつくりました。そして、倒して。また、作っていました。とっても達成感に満ちた顔をしてました。

気のなったのは港北ニュータウンの緑道を通って横浜市歴史博物館まで行って引き返してくるルートを歩かせたのですが、私の準備不足で道がわからなくなって、中継地点にいた先生が茅ヶ崎中から電話をかけてきたり、博物館の展示物を破壊したりしましました。まとめということで学年全体で高畑勲の「平成ぽんぽこ狸囃子」体育館で上映しようとカーテンを閉めた途端、生徒が暴れ始めました。学年全体の雰囲気を初めて味合うあことになりました。